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辺見庸 研究 ~内宇宙への旅~

辺見庸の発言は、ときに「荒れ球」や「魔球」もあるが、「剛速球」が身上である。その根源にある思考とは何か。

62.トランプ、COP21への裏切り

 マスメディアは、米国の「移民、難民の受け入れ拒否」や「反グローバリズム(貿易、経済、金融)」を報じている。

 トランプ大統領は、目先の利益と利己を求める大衆にすり寄り(または体現し)、失われた「米国ロマン」の復権を訴えている。まさにヒトラーの言動そのものである。

 アメリカファーストの実相が「アメリカの利己主義・排外主義」であることは、経済・社会・金融・軍事面だけではない。地球環境の保護、改善を目指す世界各国の努力に背を向け、COP21の決議を反故にしようとしている。

 これは米国が、人類生存の前提条件確保への努力を蔑ろにする暴挙以外のなにものでもない。

 2015年11 月にCOP21 と呼ばれる国連気候変動枠組条約第21回締約国会議がフランスのパリで開催された。この条約は地球温暖化問題に対する国際的な枠組みを設定した条約であり、大気中の温室効果ガス(二酸化炭素、メタン等)の濃度を安定化させる(削減し続ける)ことを目的にしている。

 COP21のパリ協定では、世界共通の長期目標として平均気温上昇を産業⾰命前から2℃より⼗分低く保つ。1.5℃以下に抑える努⼒を追求することを決定した。主要排出国を含むすべての国が削減目標を5年ごとに提出・更新するという内容だ。

 米国はその努力をあざ笑うかのように、COP21から離脱したのである。日本の首相はそのことに対して公式に異議申し立てをしていない。

 現在の米国には、成熟した民主国家としての矜持はない。人類の生存基盤である地球環境へのまなざしを全く欠き、金権にまみれた劣情が噴き出ているのである。それは反エコロジーへの視点の転換だけでは済まされない問題である。

 辺見庸の次の指摘に耳を傾けなければならない。

    気候変動は二酸化炭素による温室効果だけが原因であるはずがない。しかし私たちは、温暖化を考えるときに戦争や核実験という重大な要因を捨象してしまう。そして、温暖化対策は「エコロジー」という言葉でくくられてしまうのです。

『たんば色の覚書 私たちの日常』毎日新聞社、2007年。のち角川文庫、2011年、129ページ。

61.「不条理な」苦痛

 今日の世界情勢として政治の右傾化、排外主義の台頭がある。それは「トランプ現象」に顕著に表れているのだが、日本にも当てはまることである。

 逸見庸は『いま、抗暴のときに』で、次のような主旨のことを述べている。十数年も前のことだ。

 ドブレは前掲書で憂いがちにいっていた。「技術の進歩は不可逆だが、政治は可逆的なものだ。つまり、政治には進歩はないということだ」。人間的なるものは技術的進歩に追いついていないし永遠に追いつくことはない。そこで現出したのがすなわち高度技術社会における不可視の精神遅滞ないし獣性である。

『いま、抗暴のときに』毎日新聞社、2003年。のち講談社文庫、2005年、84-85ページ。(なお、文中の前掲書とは、ドブレ『革命の中の革命』(晶文社))

  歴史が技術と同様に進歩するのであれば、原始・古代・封建・近代・現代の推移として、人間(人類)の情意における俗や劣は精錬された「精」(叡智)を内包して現出しているはずであるし、それが未来において大きく広がると予感されるに至っているはずである。

 そうならずに人間は「精神遅滞ないし獣性」を引きずっているのだから、「人間の不完全性を歴史はいつまでも刻み続けている」とわかったように佇み、利己に閉じこもっていると、次に来るのは核兵器の使用による滅亡である。 

 「ぼくは無機物論者ですから、そういうもの(生れ変わり:筆者註)はなくても平気なんです。だけど、生きている間はイメージのなかで平和共存とか、南無阿弥陀仏とかありますけれども、平和共存と何回も繰り返すよりも、南無阿弥陀仏で極楽に往生するということがより広く、より長続きする一つの考え方だと思うんです。平和共存というものは、非常にあやふやなものでしょう。しかし絶対他力というものはね、全部救いがないというときに浮かび上がってくるイメージですから、そのほうに賭けるわけです。生きている間はですよ。だけど、本心は無機物に帰するに過ぎない。地球上のすべての生物はやがて腐って、消えゆくものですね。腐って消えてゆかなかったら、存在というものはできないでしょう。(中略)腐って消えていって、滅びてしまうということがあってですね、うまく調和がとれているのであって、それはぼくは自然科学的に考えているわけです。」

 武田泰淳『館田泰淳全集 別巻二』筑摩書房、1979年、198ページ。

 しかし、人類がこの地球で無機物になる前に平和共存を、他力本願と言われようが、それが非常にあやふやなものであろうが、矛盾に対峙しながら唱え続ける。または辺見の言うように、

 いわゆる「反社会的」思想の助けも借りなければならないし、まずもって「反社会的」という世にも恥ずかしい言葉を捨てることからはじめなければならない(辺見庸『同上書』85ページ)。

 かつてのローマ帝国がそうであったように、米国は自国の仕業に起因したことどもを顧みず「逆切れ」し、気に入らないものを排除・抑圧する。抵抗や反乱が必至なことは自明である。

 資本に精(叡知)など皆無、権力・権威もしかり。言葉だけによる理念やロマンもまたしかり。押し付けられ誘起された自己犠牲ではなく、個として主体的な自己否定(批判的主体形成)を通じて「脱・精神遅滞ないし獣性」を具現する。  

 技術の進歩に比べた場合の政治の可逆性ないし退行。人間の情意が俗や劣から脱することができずに引き戻されるが、進歩の規準はある。

 人類(歴史)の進歩は、人々の利便性と快適性をひたすら追求する技術における進歩とまったく異質なのである。

 「不条理な」苦痛―つまり各人が自分の責任を問われる必要のないことから負わされる苦痛―を減らさなければならない、という価値理念に歴史の進歩の規準が求められる。

(出典:市井三郎(1971)『歴史の進歩とはなにか』岩波書店、208ページ)。

 障がい者、被差別者、被災者、難民、その他諸々の不条理に見舞われている人たちの苦痛をいかに減らすことができるか。

歴史の進歩を刻む。その取り組みのなかで、各人が問われる責任を、各人の置かれた情況や暮らしにおいて自覚し行動に移し主体形成へと進んでゆく。

 「他業自得」を基底に「自業自得化」してなにか新しいもの(新しい自分をふくむ)をつくりだす。その営為のなかに自由がある。 小山俊一はサルトルの所説を、そのように理解したのであったが、一言つけ加える。「説教ならまだしもだ」と。

60.ロマンチシズムの力

 

 「ぼくらの年になると、とにかく無事に暮らせればいい、という気持ちが片方にあって、そういう気持ちを引っぱって行くだけの力は、ロマンチシズムにはないんですよ。だからどうしても破壊ということになっちゃう。」(五木寛之との対談で)。

 武田泰淳武田泰淳全集』別巻二、筑摩書房、1979年、107ページ。

  この武田の発言は、五木寛之が、当時の若者たちのなかに、日本浪漫派や国際浪漫派とでもいうべき人が出てきているということや、「アナーキズムは舞踏で、コミュニズムは歩行みたいなもの」との発言を受けてのものである。

  ただし、ファシズムにもファシズムなりのある種のロマンというものがあると言えるかもしれないが、それは国家権力に誘導されたロマンであり、ロマンチシズムの特質のとして、個性(個体)を重んじ古典主義に抗することを欠く点で画然と異なるのである。

 ところで「とにかく無事に暮らせる」というときのその中身は何か。ロマンチシズムに魅力を感じなくなっている心情はどのような理由によってもたらされるのか?

〇まず考えられるのは、GDPが増え一定の物質的な豊かさを得られ、そしてまがりなりにも多数決による民主政治が形成され、それらによって従来は踏みにじられてきた人間の利己的遺伝子による充足がかなえられるようになった、ということ。

〇だが、その内実は、消費資本主義(市場主義)による操作対象でしかない。消費資本主義という高速機械装置の中で暮らすうちに消費購買におけるマチエールを欠き、さらには自分の「言葉」も喪失してしまっている。物質文明を享受し利便性から抜け出られなくなっている。

〇自らが物質化し(またはステレオタイプの剥製になって)、暮らしの中で緩慢なる死(「無機物化」)を「生きて」いる。そうような状態であっても利己的遺伝子は「よし」とする。リスクや負担が懸念される急激な無機物化を回避できるという「無事」を選んでいるのだ。

 その結果、一定の自己犠牲を必要とする民主社会や公正の理想を目指すロマンチシズムは後退するが、それを言葉で引っ張っていけないからといって破壊に走ってよいのか。よいはずはない。

〇エゴイズムは全面的な自己肯定である。一方、民主主義は自己犠牲という自己否定をf:id:eger:20170128151250j:plain

必要とする。そのことを前提としたうえで、はたして民主主義は成立するのか。これは永遠の矛盾であると言わざるを得ない(真継伸彦「生きることの地獄と極楽」武田泰淳『上掲書』195ページ)。

  この永遠の矛盾に人はいかに対するのか。矛盾への対峙さえ放擲し「無事に生きる」のか、それとも忍耐強く「歩行」をあきらめずに進み続けるのかが問われているのだ。ときにはニヒリズムを笑い飛ばして「踊る」ことがあってもよいと思う。

59.反照者たち

 憧れの感情は心に一条の光となって生きる動力となる。それはロールモデルの底辺にも存在する。憧れの対象に向かって投げかける光線は穏やかだ。

 それに反して自己が投げかけた光線が衝撃の反照となることがある。それは自己の根底を照らす光の束であり、心の内奥にまで入り込む。反照者は書物の中で知った人であったり、実在の人で知遇を得た人である場合もあろう。

 縁を得た人は幸いである。反照者と現存できるからだ。逆にそういった縁を結べなかった人は、他者によるインスパイアなく生を終えるが、だからといってそれが不幸であるとは断じえない。

  反照者とはいったいどのような人なのか。返答に窮する。なぜならば、それはまさに人さまざまだからである。 

 反照者に共通しているのは「十字架」を背負っているということである。クライム(犯罪)ではなくスィン(罪業)を背負っている。生死のはざまで対峙する単独者。そこには、非・反権力、非・反権威を貫く姿がある。

  辺見庸は、世にいう偉人たち(次記)と少し位相の違う位置から、反照する人びとがいることを、私たちに気づかせた。 

自責の単独者 :鹿野武一、石原吉郎、菅 季治

孤絶の人   :シャラーモフ、マンデリシュターム、小山俊一、(フランクル) 

自死願望で生きた人 :尾形亀之助、弾誓上人、(「バートルビーハーマン・メルヴィル作)

   

  上記以外の、「反照」する人びと。

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孤高の人

  良寛加藤文太郎キルケゴール

アナキスト

  クロポトキン 深沢七郎 幸徳秋水 大杉栄

求道者

  シモーニュ・ヴェイユ  トルストイ  空海 

ニヒリスト

  ニーチェ  武田泰淳

純真直情の人

  ゴッホ  ガンジー  大道寺将司

芸術至上主義者

  モーツアルト ピカソ ベートーベン ランボー 紫式部 谷崎潤一郎  芭蕉

反抗と愛の人

  イエス   

知の巨人

  マルクス  ヘーゲル ソクラテス プラトン アリストテレス ルソー アインシュタイン 南方熊楠  ゲーテ

 

革命家

  チェ・ゲバラ  トロツキー  レーニン  ルター  インディラ・ガンジー

悟達の人

  老子  荘子  釈迦   

愛の実践者

  マザー・テレサ  ヘレン・ケラー  

 

 重要なことは、無名でも反照する人は少なくないということである。

 

 

 

 

58.十字架

 石原吉郎はふつうに生きることを否定した。生きていることがむしろ不正常だという考え方が、経験的にも彼にはあった。石原という非生産的でネガティブな人、あらかじめ緩慢な自死を定められてきた人―。知る限りで何人か思い浮かぶけれど、たとえば尾形亀之助がそうだったのではないか。(中略)

 ただ、尾形の正確な末路はよくわからないけど、いわゆる自餓死と言われている。ハーマン・メルビルの『バートルビー』にも喩えられるかもしれないが、そのバートルビー的なものが石原にもまったくないわけではなかった。(中略)

 「私が理想とする世界とは、すべての人が苦行者のように、重い憂愁と忍苦の表情を浮かべている世界である。それ以外の世界は、私にはゆるすことのできないものである」ということを彼は言う。

辺見庸『もう戦争がはじまっている』河出書房新社、2015年、236―237ページ。)   

 

 人にとって「十字架」とは何か。イエス・キリストの「受難」そして「磔刑」に象徴される十字架ではあるが、十字架はイエスの受難だけを意味するだけでなく、ひろく人間に共通する罪業にかかわることである。イエスは人類の罪業を「すべての人に代わって」一人で引き受け、そして「磔刑」にあった。そこからキリスト教が生まれキリスト信仰が全世界に広められたのだが、その後、イエスの教えの異元化が世界中で行われることになろうとは。

 人が生きていくうえで、受難が不可避で宿命的であるとさえいえる。人間関係や人間社会、国家がもつ(もたざるを得ない)権力や権威は、個々の人びとの自由を制限し奪い去る。基本的な権利を侵す。人は何らかの罪を犯さない人はいない。クライムとスィンは人が生きるうえで不可避である。そもそも人は、他の生を奪うことなく、また他を傷つけることなく生きるということはできないのだ。

そのような意味でも、人は十字架を背負っている。

 

 石原吉郎は、召集拒否(兵役拒否)をすすめられたがそれを拒否して応召し、情報要員として教育訓練を受けたのち満州にわたり関東軍に属した。

 その前にキリスト教の洗礼を受けているが、結果的に戦争に加担するキリスト教に対する批判的な目はもちえなかった。

 1945年、日本は敗戦。ハルビンで密告によりソ連軍に拘束され、戦犯者としてシベリアに抑留されるが、石原が戦争加害者としての認識をいつ、どのように銘記したのかは本人しかわからない。

 石原吉郎は述べる。「私は広島について、どのような発言をする意志ももたないが、それは、私が広島の目撃者でないというただ一つの理由からである。私は告発しない。ただ自分の〈位置〉に立つ。」と。敗戦後8年間のシベリア強制収容所での「均一化された繰り返される生死の境での日々」の体験からの発語である。

 これに対して逸見庸は「目撃していないから発言しないというのではなく、視えない死をも視ようとすることが、いま単独者のなすべきことではないのか。」と批判する。

 石原はそれでも「他の生を犠牲にしてしか生きられない人間の罪業」を犯してきた自責の念から告発しない単独者を貫いた(ジャイナ教との異同はここでは触れない)。

 

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石原吉郎の「自編年譜」より

1938年(昭和13年)23歳

 東京外語卒業。大阪ガス入社。キリスト教に関心をもち、住吉教会を訪ね、ここでカール・バルトに直接師事したエゴン・ヘッセル氏に会う。住吉教会にあきたらず姫松教会に移る。同教会でヘッセル氏より洗礼を受ける。

1939年(昭和14年)24歳。

 九月神学校入学を決意し、(大阪ガスを)退職。上京。ヘッセル氏のすすめにより、当時新鋭のバルト神学者の牧会する信濃町教会へ転籍。東京神学校入学の受験準備を始める。十一月集を受ける。ヘッセル氏から召集拒否をすすめられたが応召(ヘッセル氏はすでにドイツ本国からの召集を拒否しており、米国へ亡命した)。

 その後、石原は情報要員として軍事教育を受け、関東軍司令部に所属、満州へ。敗戦後にシベリアに8年間、強制収容され、1953年に帰還した。

 

 

57.講演会(1月30日)のこと

 辺見庸の右目が見えなくなった、体を激痛が走る、「エベレスト」にも最近は登っていない、という。右目は手術しなければならず入院は7日ほど。左目も問題ありとのことだ。

 今年の1月7日からのブログ「私事片々」は2017年1月23日でいったん途切れ、その後、再開されたものの1月25日にまた消えた(削除された)。

 それによると、労組の研修会には行き、片目で話したとのこと。だが、彼のブログの文章量は極端に少なくなり、以前のような「粘着性」は薄らいでいる。

 身近な家族が辺見から去って久しい。

辺見庸)「私は傷つけた人々に私だけの重い責任を負うている。それは事実だ。そこから逃げようとはしていないし、ごまかそうとも思わない。家の問題は大したことがなく、世界の問題は重いから二者を分離し、前者を語らないというわけではないのだ」。(『自分自身への審問』毎日新聞社、2006年。173ページ)。

   不自由な体では歩くこともままならない。ときにマックでダブルチーズバーガービッグマックを食べ、又は定食屋に行き、喫茶店でしばしくつろぐのが精いっぱいであったのだ。

 昨年12月5日、八重洲ブックセンターでの講演が無事終わった後、辺見の体調は悪化していった。

 死刑制度に関する朝日新聞からの取材に応じたものの、記事の内容は辺見が答えたものと程遠く貧寒たるものだった。劣悪な見識の持ち主の米国大統領就任、国内では共謀罪の国会可決への動き。それ以外にも彼自身の諸事情もあるだろう。

 それでも今月30日の新宿での講演会には予定通り行くと辺見はブログで書いている。

『1★9★3★7』を書きあげ、彼としては思索・著作活動の「総括」をしたとの思いがある一方、情況への憤怒を表現しないわけにはいかないのだろう。それは体調や年齢を超える陰熱によるものかもしれない。 

 辺見庸は10年ほど前には、人前で語ることについて次のような感慨を持っていた。彼らしい気概と照れが交錯している。

 私ひとりのこととしては、羞じどころかそこはかとない頽廃の臭いさえ嗅ぐこともあった。大勢の人を前に一段高いところからひとしきりなにごとか偉そうに話す自分に、だ。旧年はそれが堪えがたいほど多くつづき、私は聴衆に向かって声張りあげては内心「なんてこった」と声なくおのれを呪い、回を重ねるごとに厚顔の度を増す一方で、少しは静かにまつとうに生きたいという私なりの気組みがいやな音をたてて崩れていくのを感じていた。

 聴衆が私の話に昂揚しはじめれば、私は彼らの高ぶる心の波をさらに高ぶらせようと案をめぐらし、それが奏功したりすると怪しげな快感のようなものすら覚え、内心かえってぞっとしたこともある。私は自分が年来もっとも軽蔑していた口舌の徒になりさがっていた。

 それでも人前で話すことをやめなかったのは、いいわけめくけれども、古くから胸底にこびりついていた二つの沈黙の言葉が異常に発酵して体内に充満し私をいらだたせたからでもある。

『記憶と沈黙 辺見庸コレクション1 』毎日新聞社、2007年、182-183ページ。

  だが、2007年、新潟での講演中に脳出血で倒れて以来、治療を受けながら懸命のリハビリに努め、体力・気力を回復させてきたものの、後遺症は容易に治癒しないどころか徐々に彼の心身は弱っていった。ブログからはそう読める。

  今月1月30日に新宿紀伊国屋ホールで開催される講演会については少し様子が異なる。

 紀伊国屋ホールでの講演会、彼の姿を一目見て、そして話を聞きたい人は少なくないだろう。しかし、『1★9★3★7』を「なめるように」読めばいいのだ。『死と滅亡のパンセ』『明日なき今日』『国家、人間あるいは狂気についてのノート』などを再読すればいい。

 昨年春に他界した彼の母親(「昨春の母の他界(2017/01/13のブログ「私事片々」)も、辺見庸が早く会いに来ることを決して望んでいないはずである。

 

56.賛意、同感の表明

  辺見庸の批判は身体を賭けた批判であり「剛速球」であるが、一方では、賛意を表し、または高く評価している人や作品はある。これにより辺見庸の思考の骨組みが見えてくる。

 辺見庸が自分の著作の中で、一定以上の字数または言及する頻度(表現された語に込められたニュアンスがそれに加わる)で、人や作品を以下の4つのカテゴリーで考えてみよう。

 辺見庸による賛意や評価は、作品の芸術性そのものでの文芸評論だけではなく、その人、または作品の基底に流れる思想や生きる姿勢についての辺見庸の認識として表現されたものにもとづくものであることをお断りしておきたい(なお、それぞれについての言及内容は別途記していくのでここでは掲げていない)。

  1. 全面的といってよいほど賛意を表し、高く評価または同感している。そして非難するべき点の記述はない。                

   武田泰淳

    プリーモ・レーヴィ

   ジョルジョ・アガンベン

   大道寺将司

2)強く賛意を表し・高く評価しているが、批判点が少し記されている。  

   堀田善衛

   丸山眞男

   石原吉郎

   吉本隆明

   石川淳

   太宰治

   埴谷雄高

   柄谷行人

   永井荷風

   高橋哲哉

   ノーム・チョムスキー

   カール・マルクス  

 

3)特定事項について賛意を表し、評価している。 

   藤田省三

   夢野久作

   芥川龍之介

   串田孫一

   舟戸与一

   市川浩

   日高敏隆

   坪井秀人

   夏目漱石

   沼沢均

   田中克彦

   ベルトルト・ブレヒト

   シモーヌ・ヴェイュ

   ハンス・マグヌス・エンツェンスベルガー(『意識産業』)

   レジス・ドゥブレ

           ハーマン・メルヴィル (『バートルビー』)

   ジョージ・オーウェル(『1984年』)

   ヴァルター・ベンヤミン(『暴力批判論』)

   ジル・ドゥルーズ

   ジャン・ボードリヤール

    

4)賛意を表し、評価しているが、批判するべき点はやや厳しく批判している。

   小林秀雄

   野間宏

   高橋和巳

   原民喜

   アルベール・カミュ

  

 

55.辺見庸氏の著作(本文)のなかで出てきた作品(その2)

 辺見庸氏の著作のなかで出てきた作品(一部、辺見庸氏との対談での中での作品あり)。映画、音楽、演劇、絵画、写真など(下記以外に未記載の作品があればお許しください)。

 

映画

エミール・クストリッツァ(監督)

  『アンダーグラウンド

  『パパは、出張中!』

 『ジプシーのとき』

 『アリゾナ・ドリーム』

・クロード・ランズマン(監督)

  『ショア』

ラース・フォン・トリアー(監督)

  『ダンサー・イン・ザ・ダーク

スタンリー・キューブリック(監督)

  『博士の異常な愛情 または私は如何にして心配するのを止めて水爆を愛するようになったか』

  『2001年宇宙の旅』

・ゴッド・フリー(監督)

  『コヤニスカッティ

アラン・レネ(監督)

  『夜と霧』

スティーヴン・スピルバーグ(監督)

  『シンドラーのリスト

デビッド・リンチ(監督)

  『ツイン・ピークス~ローラ・パーマーの最期の7日間~』

  『エレファント・マン

  『ブルー・ベルベット

  『ワイルド・アット・ハート

・チャールズ・チャップリン(監督)

 「ライムライト」

・バートン(監督)

   『リターンズ』

   『バットマン

・マーサ・クーリッジ(監督)

 『ランブリング・ローズ』

・ロベルト・ヴィーネ(監督)

 『ガリガリ博士』

カート・コバーン

 「LAST DAYS]

アンジェイ・ワイダ(監督)

 『灰とダイヤモンド

モフセン・マフマルバフ(監督)

 『カンダハール

マイケル・チミノ(監督) 

 『ディア・ハンター

・アルトマン(監督)

 『M★A★S★H』

フランシス・フォード・コッポラ (監督)

 『地獄の黙示録

エリア・カザン(監督)

 『欲望という名の電車』(1952年)

マイク・ニコルズ(監督)

 『パージニア・クルフなんかこわくない』(1966年)

イングマール・ベルイマン(監督)

 『沈黙』1962年

ジョン・カサヴェテス(監督)

 『プエイシズ』(1968年)、

オリバー・ストーン(監督)

 『プラトーン

スタンリー・キューブリック(監督)

 『フルメタル・ジャケット

マイケル・ムーア(監督)

 『ボウリング・フォー・コロンバイン

・イエジー・カヴァレロヴィチ(監督)

 『夜行列車』

リドリー・スコット(監督)

 『ブレードランナー』」

李纓(監督)

 『靖国

・陸川(監督)

 『南京!南京!』

・『南京―戦線後方記録映画』

土井敏邦(監督)

 『“記憶”と生きる』

東宝文化映画部制作

 『南京戦線後方記録映画』(ナレーション・徳川夢声

原一男(監督)

 『ゆきゆきて、神軍

 『全身小説家―もうひとつの井上光晴

 『極私的エロス・恋歌1974』

小津安二郎(監督)

 『秋刀魚の味

 『麦秋

 『東京物語

深作欣二(監督)

 『恐喝こそわが人生』

 『仁義なき戦い』(脚本:笠原和夫

 『火宅の人』(原作:檀一雄

 『いつかギラギラする日

・渡辺健一(監督)

 『天皇と軍隊』

イングマール・ベルイマン(監督)   (映画名は不記載)

 

・『勝利者たち』

・『紅の豚

・『性風俗ドキュメント・ザ・穴場』

 

 

演劇

スーザン・ソンタグ(演出)

 『ゴドーを待ちながら』サミュエル・ベケット著(安堂信也・高橋康也訳)白水社

・東大ポポロ劇団

 『何時の日にか』

 

音楽、歌

ニルヴァーナ

 「ネバーマインド」

 「Unplugged In New York」

 「WHERE DID YOU SLEEP LAST NIGHT

チェット・ベイカー

 「アイム・ア・フール・トゥ・ウォント・ユー

 「ザット・オールド・フィーリング」

 「マイ・バディ」

 「イッツ・オールウェズ・ユー」

エリック・クラプトン

 「WONDERFUL TONIGHT」

 「ブルー・アイズ・ブルー」

・パブロ・カルザス

 「鳥の歌」

・新井英一、作詞・作曲・歌

 「清河への道」

・映画『渚にて』のテーマ曲

 「ワルツィング・マチルダ」

・BEGIN

 「金網移民」

西條八十作詞、古賀政男作曲

 「そうだその意気」

・八木沼丈夫作詞、藤原義江作曲

 「討匪行」

 

絵画

フランシスコ・デ・ゴヤ

 「すべてが妄」(版画)

 「歯を盗む」(エッチング

香月泰男

 「1945」

写真

丸木位里丸木俊

 「からす」(絵を写真にしたパネル)

・マリオ・ジャコメッリ

 「スカンノの少年」『連作:スカンノ』

 『連作:夜が心を洗い流す』

 『連作:死が訪れて君の眼に取って代わるだろう』

 『連作:この憶い出をきみに伝えん』

 

その他

河邑厚徳・林由里

 『アインシュタイン・ロマン』(NHKドキュメント映像)

54.辺見庸氏の著作(本文)の中で出てきた作品(その1)

 

資料1

* 辺見庸氏の著作の本文の中で出てきた作品(辺見庸氏以外の著者の著作物)は次記のとおりです。

 *一部を除き基本的に辺見庸氏の著作(本文)において書名が記されたものを掲げ、それらの表記形式は、基本的には記載通りの形式にしています。

* 本文の注記において記載されている本(作品)は掲げていません。

* 本文に記載されているにもかかわらず、掲載漏れの文献があるかもしれません。ご容赦ください。

  

武田泰淳

   「滅亡について」『評論集 滅亡について 他三十篇』岩波文庫、1992年。

 「審判」『昭和戦争文学全集3 果てしなき中国戦線』集英社

 「従軍手帖」

 「汝の母を!」『武田泰淳全集第五巻』筑摩書房所収、1956年。

 「司馬遷史記の世界」

 「もの喰う女」

 「ひかりごけ

 「富士」

 「風媒花」

 「快楽」

 「蝮のすゑ

 「森と湖のまつり

武田泰淳・堀田善衞

 『対話 私はもう中国を語らない』朝日新聞社、1973年。

石原吉郎

 『日常への強制』

 「一九六一年以後のノートから」(『日常への強制』所収)。

 「一九五六年から一九五八年までのノートから」(『日常への強制』所収)。

 「沈黙と失語」『望郷と海』ちくま文庫

 「恐怖」(『石原吉郎詩文集』)。

 「アイヒマンの告発」『続・石原吉郎詩集』思潮社

 「失語と沈黙のあいだ」『詩学』1972年。

 『石原吉郎詩文集』講談社文芸文庫

 『足利』

 ・堀田善衛  

 『時間』『堀田善衛全集2』筑摩書房。

 『方丈記私記』

 『橋上幻像』

 『広場の孤独』

石川淳

 「マルスの歌」(『石川淳短篇小説選』ちくま文庫

・大道寺将司

 『棺一基 大道寺将司全句集』太田出版、2012年。

 『友へ 大道寺将司句集Ⅰ』ぱる出版。

 『鴉の目 大道寺将司句集Ⅱ』海曜社。

 『死刑確定中』太田出版、1997年。

 「虹作戦Ⅱ一九七四年八月一四日」『大道寺将司獄中書簡集 明け方の星を見上げて、れんが書房新社。

丸山眞男

 「歴史意識の<古層>」『忠誠と反逆転形期日本の精神史的位相』ちくま学芸文庫

 『自己内対話』みすず書房

 「戦争責任論の盲点」『戦中と戦後の間 1936-1957』『思想』1956年3月号。のち

 『戦中と戦後の間 1936-1957』みすず書房

 「超国家主義の論理と心理」『世界』1946年5月号。のち岩波文庫

 『日本の思想』

 「戦争責任論の盲点」『丸山眞男セレクション』

串田孫一

 『星への手紙』

 「寒月の下での躓」『思索の遊歩道』

串田孫一・二宮敬編 

 『渡辺一夫 敗戦日記』

・坪井秀人

 『声の祝祭-日本近代詩と戦争』名古屋大学出版、1997年。

竹内好

 『状況的 竹内好対談集』

阿部謹也

  『「世間」とは何か』講談社現代新書。 

藤田省三

 『天皇制国家の支配原理』みすず書房

 『写真と社会」小史』(『藤田省三著作集9』)みすず書房

中野重治

 『五勺の酒』

 『おどる男』

市川浩

 『精神としての身体』講談社学術文庫

柄谷行人

 「責任と主体をめぐって」『批評空間』(2‐13号)1997年の座談会。

 『倫理21』平凡社

 「日本精神分析再考」『文學界』1997年11月号。

 「20世紀・近代・社会主義」『週間読書人』2001年7月13日号。

 『憲法の無意識』岩波文庫、2016年。

 「改憲を許さない日本人の無意識」『文學界』2016年7月号。

吉本隆明

 『柳田国男論・丸山真男論」ちくま学芸文庫

  「共同幻想論」1968年。

 『わが転向』

 『異族の論理』1969年。

  「転向論のひろがり」(『中央公論』(文芸特集)1990年9月号。

  『「反核」異論』

 『マチウ書試論-反逆の倫理』

 『反逆の倫理』

 『高村光太郎

 『芸術的抵抗と挫折』

 『抒情の論理』

 『大情況論』

 『食べものの話』丸山学芸図書

 「天皇および天皇制について」『国家の思想』筑摩書房、1969年。

 「フェミニズムと家族の無意識」『現在思想:難しい話題』1984年6月号、青土社

 「もともと人間の大部分の振舞いは、善でもなければ悪でもないことから出来あがっている」『季刊 リテレール』第五号所蔵。

吉本隆明武井昭夫

 『文学者の戦争責任

日高敏隆

 『利己としての死』弘文堂、1989年。

 『ネズミが地球を征服する?』

尾形亀之助

 「無形国へ」『尾形亀之助詩集』現代詩文庫、思潮社、1930年。

・鉄筆編

 『日本国憲法 9条に込められた魂』鉄筆文庫、2016年。

坂本龍一監修(著者:山本芳幸ほか)幻冬舎

 『非戦』

・岩田正

 「駅から家へ」『文藝春秋』1999年8月号。 「九条の改正笑ひ言ふ議員このちんぴらに負けてたまるか」の短歌を所収。

笠原十九司

 『南京事件岩波新書

・和田春樹

 『北朝鮮―遊撃隊国家の現在』岩波書店、1998年。

石牟礼道子

 『十六夜橋』

 『苦海浄土―わが水俣病

 『椿の海の記』

 『あやとりの記』

 「菊とナガサキー被爆朝鮮人の遺骨は黙したまま」『朝日ジャーナル』1968年8月2日号)

 「魚とりパントマイム」石牟礼道子全詩集『はにかみの国』石風舎。

原民喜

 『夏の花』

・沼沢均

 『神よ、アフリカに祝福を』

・細田伝造

 『谷間の百合』書肆山田。

 『ぴーたーらびっと』書肆山田。

 ・桐山襲

 『パルチザン伝説』作品社

梯明秀

 『戦後精神の探求―告白の書-』理論社、1949年。のちに増補されて勁草書房、1975年。

 『資本論への私の歩み』

 『物質の哲学的概念』

 『社会起源論』

 『社会と弁証法

古山高麗雄

 『プレオー8の夜明け』

色川武大

 『狂人日記』。

田中克彦

 『国家語をこえて』

 『ことばと国家』

 ・高橋哲哉

 『犠牲のシステム 福島 沖縄』集英社新書

 『沖縄の米軍基地 「県外移設」を考える』集英社新書

高橋哲哉山影進

 『人間の安全保障』東京大学出版会

高橋哲哉

 『靖国問題』ちくま新書。

茨木のり子

 「四海波静」『ユリイカ』1975年11月号(のち『自分の感受性くらい』花神社、1977年)。

・舟戸与一

  『硬派と宿命―はぐれ狼たちの伝説』世代群評社。

 『砂のクロニカル』

 『蝦夷地別件』

・堀尾青史

 『年譜 宮澤賢治伝』

・野村浩也

 『無意識の植民地主義 日本人の米軍基地と沖縄人』

野村進

 『コリアン世界の旅』講談社文庫、2009年。

高村光太郎

 「彼らを撃つ」

小林多喜二

 『蟹工船

古山高麗雄

 『真吾の恋人』

深沢七郎

 『楢山節考

 『風流夢譚』

・伊藤晃

 『「国民の天皇」論の系譜―象徴天皇制への道』社会評論社

石川啄木

 『呼子と口笛』

夢野久作

 『猟奇歌』

 『ドグラ・マグラ

・楱葉英治

 『城壁』

長谷川四郎

 「兵隊の歌」『長谷川四郎全集』。

 『とうとうたらりの歌』

大内兵衛

 「天皇戦争責任」『中央公論』1956年6月号。

 『昭和戦争文学全集 三』「果てしなき中国戦線」解説、集英社

市村弘正

 「考える言葉」『〔増補〕小さなものの諸形態―精神史覚え書』平凡社

・中村稔

 『鵜原抄』

大江健三郎

 「私はなぜ憲法を守りたいのか」『世界』2003年1月号。(加藤周一との対談)。

 『性的人間』

埴谷雄高

  『死霊』

  『罠と拍車』未來社。

  『幻視のなかの政治』

 『埴谷雄高独白「死霊」の世界』NHK出版。

 『鐘と遊星』未来社

 「抑圧の武器と反逆の武器」『罠と拍車』未来社

 「戦争と革命の変質の時代」『彌撒と蔭」未來社。

 「無限の相のもとに」『埴谷雄高×立花隆対談』平凡社

 「戦争と革命の変質の時代」『彌撒と蔭』未來社。

 『死霊』

 『墓銘影繪』

埴谷雄高立花隆

 『無限の相のもとに』(対談)平凡社

高橋和巳

 『悲の器』

 『散華』

 『邪宗門

 『憂謬なる党派』

 『暗殺の哲学』

 『孤立無援の「思想』

松本清張

 『昭和史発掘 3』

今西錦司

 『群衆―モンスターの誕生』

斎藤緑雨

 『半文銭』

安西均

 「菫の花咲くころ」

富士正晴

 『帝国軍隊に於ける学習 序』1961年。

・琴 秉洞 

 『日本人の朝鮮観-その光と影』

・奥村和一

 『私は「蟻の兵隊」だったー中国に残された日本兵』岩波ジュニア新書。

・井上俊夫

 『初めて人を殺す老日本兵の戦争論』岩波現代文庫

本多勝一・長沼節夫

 『天皇の軍隊』朝日文庫

内海愛子

 『朝鮮人皇軍〉兵士たちの戦争』岩波ブックレット

・江口煥

 「陣頭にたおれたる小林の屍骸を受取る」『日本プロレタリア文学34 ルポルタージュ集2』新日本出版社

山折哲雄

大嘗祭と王位継承」『マージナル』VOL.02。

内村剛介

 『失語と断念』

芥川龍之介

 『侏儒の言葉

 「桃太郎」『蜘蛛の糸・杜子春・トロッコ他十七篇』岩波文庫1924年

・矢部宏治

 『日本はなぜ「基地」と「原発」を止められないのか』集英社インターナショナル

・川田文子

 『赤瓦の家 朝鮮から来た従軍慰安婦

芹沢俊介

 『「オウム現象」の解説』筑摩書房。

坂口安吾

 「通俗と変貌と」1947年『坂口安吾全集』筑摩書房。

 『湯の町エレジー』

堕落論

 『続 堕落論

・宋左近

 『蜃気樓』

・荻野富士夫

 「前提としての『日本人』意識」『特高警察』岩波新書

河野多恵子

 『みいら採り猟奇譚』

野間宏

 『崩壊感覚』

 『暗い絵』

大岡昇平

  『野火』

・西ヶ谷徹

 『戦時独逸の警察』

豊島与志雄

 『異邦人の意欲』

・和田春樹

 『北朝鮮―遊撃隊国家の現在』岩波書店

・田中眞澄

 「小津安二郎陣中日誌」『小津安二郎と戦争』みすず書房

 『小津安二郎と周游』岩波現代文庫

秋田雨雀

 『骸骨の舞跳』(戯曲)1924年

半藤一利

 『昭和史 1926-1945』(平凡社ライブラリー

今村仁司

 『ベンヤミン「歴史哲学テーゼ」精読』(岩波現代文庫

川西政明

 『武田泰淳伝』

 「苦しみの根源あらわにー武田泰淳の日記を読む」朝日新聞2006年1月12日夕刊(文化面)。

・河邑 厚徳・林由香里

 『チベット死者の書NHKライブラリー版(解説より)。

・岩上安身

 『ソ連と呼ばれた国に生きて』

住井すゑ

 『橋のない川

宮柊二

 『小紺珠』

香月泰男

 『私のシベリヤ』筑摩書房

共産主義者同盟赤軍派

 「第一部討論・世界革命の現実性をどこに求めるか」『世界革命戦争への飛翔』三一書房

浜田知明

 『初年兵哀歌 風景』1952年

小田切秀雄

 『私の見た昭和の思想と文学の五十年 上巻)』

・大塚公子

  『死刑執行人の苦悩』角川書店(角川文庫)

 『死刑ー存置と廃止の出会い』インパクト出版会・飯吉光夫

宗左近

 「花のいろは」『宗左近詩集』

 ・飯吉光夫

  『パウル・ツェラン―ことばの光跡』白水社

・竹内実

 『増補 毛沢東ノート』

市村弘正

  『[増補]小さなものの諸形態¥精神史覚書』平凡社

目取真俊

 「沖縄の戦後70年、続く<戦争>と<占領>」『神奈川大学評論』第82号、2015年11月。

・加藤節・宮島喬

 『難民』

藤田省三

 「写真と社会 小史」『藤田省三著作集』

・横田喜三郎

 『天皇制』労働文化社、1949年。

夏目漱石

 『三四郎』

 『それから』

 『門』

 『行人』

 『こころ』

 『夢十夜

小泉八雲

 『怪談』(Kwaidan)

渋沢孝輔

 「非詩一篇―狂信忌むべく恐るべし」『行き方知れず抄』

黒田喜夫

 「『阿Q』は生きているか」

・三島浩司

 『オウムと近代国家』南風社。

・笠井嗣夫

 『声の在り処―反=朗読論の試み』

・櫻本富雄

 『空白と責任―戦時下の詩人たち』未來社。

 『詩人と戦争』

 『文化人たちの大東亜戦争

・佐々木到一

 『昭和戦争文学全集別巻 知られざる記録』集英社、1965年。

正岡子規

 『病牀六尺』

浜田知明

 『浜田知明作品集 取引・軍隊・戦場』現代美術社。

・高田 昌幸

 『真実―新聞が警察に跪いた日』角川文庫。

・溝口正史

 『八つ墓村

杉田玄白

 『解体新書』

 ・姜尚中

 『日朝関係の克服―なぜ国交正常化交渉が必要なのか』集英社新書

 『心』集英社。 

姜尚中佐高信

 『日本論』

吉村昭

 『三陸海岸津波

山之口獏

 「ねずみ」『山之口獏詩集 鮪に鰯』原書房、1943年。

高杉良

 『不撓不屈』

・原彬久

 『岸信介岩波新書

寺山修司

 「事物のフォークロア」『寺山修司詩集』

太宰治

 『満願』

 『人間失格

 『惜別』

 『黄金風景』

 『十ニ月八日』

 『走れメロス

 『舌切雀』

 「葉」『太宰治作品集』第一巻。

 ・泉鏡花

 『高野聖

谷崎潤一郎

 『陰影礼讃』

・筑波昭

 『津山三十人殺し』新潮OH1文庫。

梶井基次郎

 『檸檬』

 『愛撫』

 『桜の木の下には』

 『交尾』

 『闇の絵巻』

 『冬の蠅』

島尾敏雄

 『死の棘』

 ・森鴎外

  『高瀬舟

林芙美子

 『浮雲

鮎川信夫

 「Who I Am」 『現代詩手帖』1977年1月号。

泉鏡花

 『高野聖

織田作之助

 『夫婦善哉

織田作之助

 『夫婦善哉

宮沢賢治

 『銀河鉄道の夜

・光栄堯夫

 『姿なき客人(まろうど)』

永井龍

 『朝霧』

沢木耕太郎

 『人の砂漠』

・高内壮介

 「影」(『花地獄』に所収)

・小川国男

 『青銅時代』

中里介山

 『大菩薩峠

福永武彦

 『水中花』

・中馬卓馬

 『なぜ、植物図鑑か』

永山則夫

 『華』(未完)

・村松武雄編

 『中国神話伝説集』

柳田國男

 『海上の道』

滝大作監修

 『古川ロッパ昭和日記・戦前篇』晶文社

・檜森孝雄

 「遺書」『創』2002年6月号。

渋沢孝輔

 『偽証』思潮社(現代詩文庫)。

榎本知郎

 『人間の性はどこから来たのか』

村田喜代子

 『蕨野行』

・鈴木幸輔

 『花酔』

高橋睦郎

 「朝」『ユリイカ』1999年2月号。

・錦三郎

 『クモの超能力』

・小山祐士

 『泰山木の木の下で』

 ・フォーラム実行委員会

 「ニューズレター『FORUM90 NEWS増刊号』

日本共産党中央委員会付属社会科学研究所編

 『憲法の原点』新日本出版社

藤枝静男

 「文芸時評」『東京新聞』1975年11月28日夕刊。

福島民友新聞編纂

 『郷土部隊戦記』全三巻、1965年。

・白崎浩

 「さらば蘇州よーわが二等兵記」『石巻新聞』1956年。

与謝野晶子

 「君死にたまふことなかれ」

永井荷風

 『花火』

 『四畳半襖の下張り』

 『澤東綺證』

 『四畳半襖の下張り』

 『日和下駄』

 『荷風随筆集・上』岩波文庫

 「震災」(『偏奇館吟草』)

 「断腸亭日乗 四」「荷風全集第二十四巻』岩波書店

小林秀雄

 「杭州」1938年4月『小林秀雄全集』第四巻、新潮社。

 「歴史と文學」『小林秀雄全集』第六巻、新潮社。

 「支那より還りて」東京朝日新聞、1938年。

 「『悪霊』について」

 『ドストエフスキイの生活』

金子光晴

 「歯朶」『lL』

 『どくろ杯』

 「抒情小曲 湾」『文藝』1937年」10月。」

・『金槐和歌集

北原白秋

 『扇の蓮』

 『桐の花』

 「大東亜戦争」『日本評論』

火野葦平

 『麦と兵隊』

 『土と兵隊』

 『花と兵隊』

 『花と竜』

 『悲しき兵隊』

 「火野葦平の手紙―昭和十二年十二月十五日、南京にて」『國文學』2000年11月号。

 『糞尿譚』

石川達三

  『生きている兵隊』(伏字復元版、中公文庫)

 『蒼眠』1935年。

佐藤春夫

 「こころ通わざる日に」

田村泰次郎

 『春婦伝』

谷川雁

 「極楽ですか」『すばる』1990年8月号。

高見順

 『敗戦日記』

家永三郎

 『戦争責任』1985年。

田山花袋

 『一兵卒』

菊池寛

 『死者を嗤う』

三島由紀夫

 『憂国

藤原正彦

 『国家の品格

吉田松陰

 『幽囚録』

谷川俊太郎

 「たんか」『詩ってなんだろう』

阿川弘之

 『山本元帥!阿川大尉が参りました』

林房雄

 『大東亜戦争肯定論』1964年。

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<邦訳書>

ジョルジョ・アガンベン

 「人民とは何か?」『人権の彼方にー政治哲学ノ―ト』

 「恥ずかしさ、あるいは主体について」『アウシュヴィッッの残りのものーアルシーヴと証人』上村忠男・廣石正和訳、月曜社

 『思考の終わり』高桑和巳訳。

 「法治国家から安全国家へ」西谷修訳『世界』2016年3月号。

プリーモ・レーヴィ

 『溺れるものと救われるもの』竹山博英訳、朝日新聞出版、2000年。のち朝日選書、2014年。

ハーマン・メルヴィル

 『バートルビー

 『白鯨』

 『避雷針売り』

ハンス・マグヌス・エンツェンスベルガー

 『意識産業』

 「ガラスケースのまえでの考察」『政治と犯罪』

カール・マルクス

 『資本論

 『ヘーゲル法哲学批判序説城塚登訳、岩波文庫

 『経済学・哲学草稿』

・ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲル

 「抽象的に考える者はだれか」

 「精神哲学」『エンチュククロペディ 第三部』樫山欽四郎訳。

ジョージ・オーウェル

 『1984年』

 『絞首刑』高畠文夫訳。

 『動物農場高畠文夫訳、角川文庫。

ノーム・チョムスキー

 『米国の介入主義』

 「テロ・戦争・世界」共同通信の国際インタビーシリーズ。

ジャン・ボードリヤール

 「意思の亡霊」『完全犯罪』塚原史訳、紀伊國屋書店

 『不可能な交換』塚原史訳、紀伊國屋書店

 『象徴交換と死』

 『完全犯罪』塚原史訳。

 『環』2002年冬季号。

 『パワー・インフェルノーグローバル・パワーとテロリズム塚原史訳、NTT出版。

 『なぜ、すべてがすでに消滅しなかったのか』塚原史訳。

ベルトルト・ブレヒト

 『亡命者の対話』」野村修訳、現代思潮社

 『のちの時代のひとびとに』

 『ブレヒト詩集』野村修訳、飯塚書店、1971年。

アルベール・カミュ

 『ペスト』

 『シーシュポスの神話』

 『反抗的人間』

フランツ・カフカ

 『断食芸人』

 『変身』

 「ある戦いの記録」『力フカ全集2』前田敬作訳。

 『審判』

シモーヌ・ヴェイュ

 『重力と恩寵』川辺保訳。

ヴァルター・ベンヤミン

 『暴力批判論』野村修訳、晶文社

 『歴史哲学テーゼ(歴史の概念について』野村修訳。

 「この植林は、皆さんで保護しましょう」『一方通行路』久保哲司訳「ベンヤミン・コレクション3」ちくま学芸文庫

・ジョン・ダワー

 『敗北を抱きしめてー第二次大戦後の日本人』

 ・ハンナ・アーレント

 『暗い時代の人々』阿部斎訳。

 ・ミシェル・フーコー

 『狂気の歴史―古典主義時代における』補遺、田村俶訳。

 『性の歴史』

ハーバート・マーシャルマクルーハン

 『メディア論』

・エーリッヒ・フロム

 『革命的人間』

・スタンレー・ミルグラム

 『服従の心理 アイヒマン実験岸田秀訳。

フリードリヒ・ヴィルヘルム・ニーチェ

 『歴史の効用と害悪にについて』

ジル・ドゥルーズ

 「前未来」1990年春『記号と事件 1972年―1990年の対話』宮林寛訳。

・ウラジーミル・イリイチ・レーニン

 『資本主義の最高の段階としての帝国主義』『世界の名著63 レーニン』和田春樹訳、中央公論社

・ジャン=ポール・シャルル・エマール・サルトル

 『戦争日記』

 『ユダヤ人』

・クロード・ランズマン

  『ショアーSHOAH)』高橋武智訳、作品社

・ヴィクトール・エミール・フランクル

 『それでも人生にイエスと言う』山田邦男・松田美佳訳。

 『夜と霧』

・ウンヘルト・エーコ

 『永遠のファシズム』和田忠彦訳。

・ロニー・ブローマン&エイアル・シヴァン

 『不服従を讃えて』高橋哲哉堀潤之訳、産業図書

 『大衆の反逆』

・サミュエル・ベケット

  『ベスト・オブ・ベケットゴドーを待ちながら』安堂信也・高橋康也訳、白水社

・ホセ・オルテガ・イ・ガセット

 『大衆の反逆』

・カール・カウツキー

 『エルフルト綱領解説』

・ファン・ゴイティソーロ

 『サラエヴォ・ノート

 『死者たちの街』塚本昌則訳。

トルーマン・カポーティ

 『冷血』

・イヴァン・イリイチ

 『脱病院化社会―医療の限界』

チャールズ・ブコウスキー

  『町で一番の美女』青野聰訳。

エリアス・カネッティ

 『目の戯れ』

 『眩暈』

チャールズ・ブコウスキー

 『町でいちばんの美女』

ベルナール・スティグレール

 『象徴の貧困』

・フョードル・ミハイロヴィチ・ドフトエフスキー

 『虐げられた人びと』

・ヴァルラーム・シャラーモフ

 「センテンツィア』

ヨーゼフ・ロート

 『蜂の巣』

トルーマンカポーティ

 『冷血』滝口直太郎訳。

・ニコライ・ゴーゴリ

 『昔気質の地主たち』

・ラムゼー・クラーク

 「湾岸戦争における米国の戦争犯罪佐瀬昌盛訳『世界戦争犯罪事典』。

・テオドール・W・アドルノ

 『プリズメン:文化批判と社会』

・エドガワ・スノー

 『中国の赤い星』

ドストエフスキー

 『虐げられた人びと」小笠原豊樹訳。

ガストン・バシュラール

 『空と夢』宇佐美英治訳。

チェーザレ・ベッヵリーァ

 『犯罪と刑罰』

カール・グスタフユング

 『心理学と錬金術

ボリス・ヴィアン

 『日々の泡』

ソフォクレス

 『オイディプス王

・フルク・グレヴィル

 『ムスタファ』(戯曲)

マルティン・ハイデッガー

 「貧しき時代の詩人」『ハイデッガー選集』Ⅴ手塚富雄高橋英夫訳。

レイ・ブラッドベリ

 『華氏451度』

 『何かが道をやってくる』

ジャン・グルニエ

 『存在の不幸』

ダニエル・キイス

 『24人のビリー・ミリガン―ある多重人格者の記録―」

・ロバート・F. バースキー

 『ノーム・チョムスキー学問と政治』土屋俊・土屋希和子訳。

・ヘルベルト・マクルーゼ

 『一次元的人間』1964年。

・ホルヘ・ルイス ボルヘス

『砂の本』

モフセン・マフマルバフ

 『アフガニスタンの仏像は破壊されたのではない 恥辱のあまり崩れ落ちたのだ』武井みゆき・渡辺良子訳、現代企画室。

ル・クレジオ

 『物質的恍惚』豊崎光一訳。

 『戦争』豊崎光一訳)

 『ロドリゲス島への旅』豊崎光一訳。

・ミシェル・エケム・ド・モンテーニュ

  『随想録』第三巻、関根秀雄訳。

フリードリヒ・エンゲルス

 『フランスにおける内乱』(ドイツ版)第三版への序文。

ジョーゼフ・ヘラー

 『キャッチ=22』

・ダニエル・J・ブーアスティン

 『幻影の時代』星野郁美・五島和彦訳

ボリス・ヴィアン

 『日々の泡』

・ラムゼー・クラーク

 「湾岸戦争における米国の戦争犯罪」一世界戦争犯罪事典』佐瀬昌盛訳。

・ギー・ドウボール

 『スぺクタクルの社会』ちくま学芸文庫

レジス・ドブレ&ジャン・ジーグラー(対談)

『屈服しないこと』原章二訳、リキェスタの会。

レジス・ドブレ

 『メディオロジー宣言』

 『革命の中の革命』晶文社

・口ラン・バルト

 『零度の文学』森本和夫訳、現代思潮社

イアン・ブルマ

 『戦争の記憶』ちくま学芸文庫

・ジャン・ボダン

 『国家論』

ドス・パソス

 「ランドルフ・ボーン」『新・ちくま文学の森たたかいの配憶」並河亮訳。

ポール・オースター

 『眼の自叙伝」詩集『消失』飯野友幸訳、思潮社

・ロマン・バルト

 『明るい部屋』

・エミール・シオラン

 『涙と聖者』金井裕訳。

・アルンタティ・ロイ

 「夏の日の核のゲーム」『世界』2002年9月号、片岡夏実訳。

 「想像力の終わり」『わたしの愛したインド』片岡夏実訳、築地耆館。

ドス・パソス

 「ランドルフ・ボーン」並河亮訳『新・ちくま文学の森たたかいの記録』。

ジェイムズ・ジョイス

 『ユリシーズ』、

 『フィネガンズ・ウェイク

ケヴィン・リンチ

 『廃棄の文化史』有岡孝・駒川義隆訳、工作舎

・エクトール・マロ

 『まだ見ぬ親』 五来素川訳、

ポール・オースター

 「信条」『ポール・オースター 消失』飯野友幸訳。

・フルク・グレヴィル

 『ムスタファ』(戯曲)

ポール・エリュアール

 『花と果実の紋章』山崎栄治訳。

・ハロルド・リチャード・ジョリッフ

 『ギリシャ劇物語』内村直也訳。

・ダニエル・J.ブーアスティン

 『幻影の時代―マスコミが製造する事実』星野郁美・後藤 彦訳。

・ダニエル・ダヤーン・エリユ・カッツ 

 『メディア・イベント』浅見克彦訳。

・ノエル=ノイマン

 『沈黙の螺旋理論-世論形成過程の社会心理学

フアン・ゴイティソーロ

 『サラエヴォ・ノート

パウル・ツェラン

「狂気への道をたどる者の眼」「パウル・ツェラン詩文集」飯吉光夫編・訳、白水社

・ミシェル・ドゥギー

 『パニックの記―主題・変奏・対位法』山田登世子訳。

ジョゼ・サラマーゴ

 『白の闇』

・ジヤン=ルー・リヴェール

『空気の波』仙石玲子訳。

カレル・チャペック

 『人造人間(R.U.R)』(戯曲)

レイ・ブラッドベリ

 『華氏451度』

 『何かが道をやってくる』

・ボリス・パステルナーク

 『ドクトル・ジバゴ

エドワード・ゴーリー

 『おぞましい二人』柴田元幸訳、河出書房新社

・ベネデイクト・アンダーソン

 『想像の共同体』白石隆・白石さや訳、リブロポート。

・聖アウグスティヌス

 『告白』第十一巻第十四章、服部英次郎訳。

・ロープシン

 『蒼ざめた馬」

 『漆黒の馬』

パウル・ツェラン  『パウル・ツェラン詩文集』飯吉光夫 編・訳。

 『閾から閾へ』飯吉光夫訳。

オノレ・ド・バルザック

 『あら皮』

・アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリ

 『星の王子様』

・ウィスワヴァ・シンボルスカ

 『テロ・戦争・世界』共同通信配信。

ダニエル・キイス

『24人のビリー・ミシガンーある多重人格者の記録―』

・シェルドン・ウォーリン

 「逆・全体主義杉田敦訳、『世界』2003年8月号、岩波書店

フランシス・フクヤマ

 『歴史の終わり』

アドルフ・ヒトラー

 『わが闘争』

・トーレイフ・ボーマン

 『ヘブライ人とギリシャ人の思惟』(1953年)

 ・魯迅

 『阿Q正伝』

 『狂人日記

 『彷徨』

 『摩羅詩力説』

 『二十四考圖』

・徐勝

 『獄中十九年』

・李志綏

 『毛沢東の私生活』文藝春秋

司馬遷

 「項羽本紀」『史記

尹東柱

 『空と風と星と詩』金時鐘編訳、岩波文庫

・李芳世

 「チュウシン」『李芳世詩集 こどもになったハンメ(祖母)』、遊タイム出版。

金時鐘

 「等しければ』『化石の夏』海風社。

 

・「神に従う道」『イザヤ書』第58章。

・「ヨハネの黙示録」16章『新約聖書

・「コへレトの言葉」『旧約聖書

・『紅楼夢

・『続斎諧記』

・ 『譽嚥経』

・『老子

 

* 辺見庸氏の著作の本文の中で、著者名だけが書かれているもの(作品名が注記されているものもある)。(未完)

 

花田清輝

竹中労

羽仁五郎

大宅壮一

久野収

石橋湛山

杉浦明平

雨宮処凛

中山千夏

藤沢周平

飯沢匡

江藤淳

五木寛之

斎藤茂吉

吉川英治

司馬遼太郎

御厨貴

亀井勝一郎

曽野綾子

村松剛

・保田興重郎

百田尚樹

 

フリードリヒ・ニーチェ

・ガルシア=マルケス

・エマニエル・レヴィナス

アラン・シリトー

エラスムス

ジャック・デリダ

・ユルゲン・ハーバマス

・ジャン-ジャック・ルソー

チェーザレ・ベッカリーア

・シャルル・ド・モンテスキュー

ギュンター・グラス

パウルトーマス・マン

・ルイ・フェルディナン・セリーヌ

・ヴィクトール・エミール・フランクル

 ・ フランソワ・ラブレー

 

* 辺見庸氏の著作の本文の中で、作品名だけが書かれ著者名が書かれていないもの。(注記されているものはある)。(未完)

 ・『永遠の0』

・「神に従う道」『イザヤ書』第58章。

・「ヨハネの黙示録」16章『新約聖書

・「コへレトの言葉」『旧約聖書

・『紅楼夢

・『続斎諧記』

・『譽嚥経』

・『老子

 

 

資料2

*参考文献: 以下は、本ブログを書くにあたって筆者自身が引用、参考(直接・間接)にしたものです。

 

・伊藤正孝『欠陥車と企業犯罪』社会思想社(現代教養文庫)、1993年。

浦河べてるの家べてるの家の非援助論―そのままでいいと思えるための25章』医学書院、2002年。

小林恭子ほか『日本人が知らないウィキリークス洋泉社、2011年。

田川建三『批判的主体形成(増補改訂版)』洋泉社(Modern Classics新書)、2009年。

  『イエスという男』三一書房、1980年。

・丹辺宣彦「後期資本主義社会における新中間階級―概念と構成比増加のモデルー」『社会学評論』(41[2])日本社会学会、1990年。

べてるの家の本制作委員会編『べてるの家の本―和解の時代―』べてるの家、1992年。

松下竜一『狼煙を見よー東アジア反日武装戦線“狼”部隊』社会思想社(現代教養文庫)、1993年。

・ショア,J.『浪費するアメリカ人:なぜ要らないものまで欲しがるのか(The Overspent American: Why We Want What We Don't Need)』森岡孝二監訳、岩波書店、2000年。

・ヴェブレン,T.『企業の理論』(The Theory of Business Enterprise)小原敬士訳、勁草書房、1965年。

・阿部勘一「サイバースペースの陥穽と民主主義の言論」『情報通信学会年報』情報通信学会、1999年。

・BBB調査団本部『BBB:アメリカBBB調査団報告書』BBB調査団、1970年。

・市井三郎(1971)『歴史の進歩とはなにか』岩波書店、208頁。

ノーム・チョムスキー『破綻するアメリカ 壊れゆく世界』鈴木主税・浅岡政子共訳」集英社、2008年。

 

53.単独者としての行動

 被害者であり、かつ加害者である人間は、いかに実存者・単独者になりえるか。自由な存在への足場を得られるのか。辺見の思考に大きな影響を及ぼした石原吉郎、その石原を驚愕させた鹿野武一とは。

 シベリア強制収容所での鹿野の異様な行動に、その鍵を見出すことができる。そこには観念でもなく、言葉だけでもない、人間の罪業(スィン)を直視した末の自己否定がある。

 『海を流れる河』石原吉郎花神社のページを繰ってみよう。

 

  「ひたすら存続をねがう」こと、それは無理由の存続、他者の存続、他者の生命を犯してでも生きのびざるをえない自我の存続である。p.26.

 生きのこることは至上命題である。→そのためにこそ適応しなければならない。→そのためにこそ堕落はやむをえない。 p.43.

  彼の行為を自己否定ないし自己放棄とみなすことから、ようやく私は、自己処罰ということばに行きあたった。p.28.

 

 彼はいかなる刑罰を欲したのか。体刑である。

(中略)

 労働についての彼の独自の考え方は、おそらくは強制労働のなかで身につけた実感であろう。肉体が担った苦痛こそが、刑罰の名に値する。そして体刑のそのなまなましい痛みを、沈黙して耐える姿勢が、本来加害者である一人の被害者を平均化された被害者の群れから峻別する。その時はじめて、一人の単独者がうまれる。それが彼の考えた「自由」であり(それはストイシズムとはおよそ別のものである)、自己否定ではなかったかと私は考える。p.30.

「人間は本来なんびとを裁く資格も持っていない。なぜか。人間は本来「有罪」だからである。p.29.

 自己否定による単独者としての自由の獲得、それは収容所だけのことではない。追いつめられた極限状況下でも、そして日常においてもそれはある。石原は次のように記す。

 日常とは、日常の「異常さ」に謂である。日常をささえるとは、いわばこの異常さへ自覚的にかかわって行くことにほかならない。(中略)それは闘争というような救いある過程ではない。自分自身の腐食と溶解の過程を、どれだけ先へ引きのばせるかという、さいごにひとつだけのこされた努力なのである、p.16.

  ではどこに希望があるかと、人は問うだろう。それにたいして、ほとんど私は答えるすべを知らない。ただ、私にかろうじて、しかも自己のことばの責任においていえることは、逃げるな、負えるものはすべて負ってその位置へうずくまれということである。なまなかな未来を口にしないこと。そのことを、あらためて自己の決意とするということである。pp.16-17.

 

 この石原について、辺見庸はこんな発言をしている。

「(鹿野武一が)行列をつくるときに一番最初にやられる外側の列に立ったことを、ことさらに石原さんは書く。今度はそれを自分に反射させて、自分を告発していくやり方。あれはいったいなんなのか。ぼくは、それをしも馬鹿にするニヒリズムが、彼にはなかったのだと思う。それこそニッポン軍国主義じゃないか、あるいは天皇主義的ボナパルティズムじゃないか、という考えが彼にはなかった」(『もう戦争がはじまっている』河出書房新社2015年)。

 

 だが、これは辺見にしては珍しくその視角を誤っていると言わざるを得ない。石原吉郎にとっての鹿野武一は、自己処罰によって天皇および天皇主義的ボナパルティズムからも脱する単独者と捉えられていたと解するべきではないか。

 そこにおいては、抗議行動として、焼身自殺を図る者の思考と行動に通じるものを見る。そのような視点から鹿野武一を捉えるべきではないのか。

 

 

 

 

 

52.破局 滅亡

 

 歴史が、突如、激しい痙攣を起こした。それを前にしては、いかなる作家や哲学者の、どのような表現も、凡庸のそしりをまぬがれないほど、光景は、突出し、ねじれ、熱し、歪み、滾り、かつ黙示的でもあった。痙攣は、局所性のものか、それとも全身性のものなのか、そもそものはじまりには、しかとはわからない性質であったのだ。
 けれども、局所痙攣のさなかから、それがいずれ世界の全域におよぶのではないかと、なぜか多くの者が感じとり、震えおののいた。すなわち、世界のカタストロフィの予感である。過剰な反応だったであろうか。何人も、だが、杞憂と一蹴することもまだできないでいるのである。長期的に展望するならば、全的破局の予感は、案外にまつとうな歴史的直観だったかもしれないのだから。自爆テロと巨大構造物の崩落によるものすごい煙塵で、世界が満目不気味に霞むなか、いずれにせよ、なにか途方もなく不祥なものが、むっくりと起きあがったことは事実なのである。

 『単独発言 99年の反動からアフガン報復戦争まで』角川書店、2001年。のち角川文庫、(『単独発言 私はブッシュの敵である』2003年)、9-10ページ。 

 

  文明の発達が人々に利便性と長寿と安定をもたらした一方、人口は急激に増加し、文明はそれへの対処ができなくなっている。  

 そのことに人類は気づき始めたものの、平和裏での人口を賄う術を未だ見いだし得ていない。ならば外的要因によるしかないのかと思い始めたのか。全的滅亡は望まないが部分的滅亡、破局は黙認する。 

 世界が滅亡してしまうという脅威です。核兵器や世界の滅亡をもたらす兵器の発達、環境破壊、資源の枯渇、そして温室効果。さまざまなものが脅威をもたらしています。われわれは自分たちの住む場所やひいては自分自身も破壊してしまうのではないかと感じるようになってきています。世界が滅亡するという脅威はわれわれの死への向き合い方、そして人類の永遠性という考え方に大きな影響をあたえています。

『不安の世紀から』角川書店、42ページ。

 

 土台、生きていること、平和で安心できる生活なんて、そのための条件がなんとかそろったからこそ成り立っているにすぎない。ましてや楽しいこと、感動することなんて、そのための条件がめずらしく偶然整ったときにあらわれる稀な出来事である。破局と滅亡、そして死が常態なのである。

 だから破局とか滅亡を声高に唱えることは、破局・滅亡が必至であって、その到来が延期されていると言っているだけなのだ。    そのことからすれば楽観主義者なんてロボトミー手術の術後のごとく、能天気になっているに等しい。

 人類に未来はあるか。それとも人類は滅亡に向かっているのか。利己的遺伝子をもつ動物としての人類に、種の保存の原則は現実問題として通じるのか。種を維持しようとするシステムがじつはないのではないか?天変地異・災害、疫病、原水爆を使用した戦争などにたいする「正常性バイアス」が作動するなか、結果的に人類滅亡は遠くないとする声が次第に多く聞こえるようになった。いま、核弾頭四万個を筆頭に、スマート兵器といわれる精度抜群の通常戦力から地雷、小銃まで、郵便ポストの数よりはるかに多い新旧の武器が溢何を語り、どうとりつくろおうとも、われわれは兵器と兵器のあわいで、踊りを踊っているに過ぎない。 

『眼の探索』朝日新聞社、1998年、61ページ。 

  

 悪魔のシナリオの草稿は書き終えられた。いまはそれが、いつどのように演じられるか(「到来」するか)を待っているのだ。

 頭では分かっていても生体は「生」にこだわる。希望を捨てきれない。こうなれば「いつ死んでもいい」と思えるようになった人こそ幸いというべきなのか。

 

 これまではこの先になにかが待っているのではなかろうかと心の端で期待したからこそ、悪心に堪えてきたのではなかったか。まつたき破局とかまったき崩壊とかを、正直心待ちにしてきたのではなかったのか。そんなことはないのだ。破局も崩壊も再生も復活も新生も待ってはいない。破局も崩壊も再生も復活も新生も、じつは、すでにして終わっているのだ。
 この先にはなにも待ってはいない。この道理がわかるまでに、半世紀以上もかかってしまった。なにも待ってはいないということわりを知るために生まれ、六十年以上ひたぶるに待ちつくし、結果、なにも待ってはいないという結論をもって死ぬる。徒労のようでいて、これはかならずしも徒労ではない。

『たんば色の覚書 私たちの日常』毎日新聞社、2007年。のち角川文庫、2011年、79ページ。

破局

 断絶封鎖、消耗戦最終局面(全面撤退・敗戦・終戦、)、デフォルト(国家債務不履行財政破綻)、通貨破綻(ハイパーインフレ)、大規模自然災害、同時多発原発事故、大規模細菌蔓延。再生のための仕切り直しや出直しなど追い詰められたシャッフルが講じられる。多大の痛みと損失が発生。存続はあり得るが、「滅亡」にいたる「序章」でもある。

全的滅亡

 再生可能性が皆無な滅亡。巨大隕石・惑星衝突、太陽異変、ブラックホール接近、核兵器全面戦争。超悪性細菌感染症の世界中への蔓延、オゾン層破壊、地球凍結……。

 いつの日か人類が滅亡する日が訪れる。明日かもしれないし数十年、数百年、数千年、数万年先かもしれないが、その時は必ず来る。そのことは覚悟しているが、たぶん明日ではないだろう、自分が生きている間には起こることはないだろうと、ほとんどの人はそう思っている。

51.マチエールあるいは原質的なもの

 手触り感がなくなりつつある。生体に息づく生命が原質性から疎遠になっている。辺見庸はそれについて「マチエール」という語を使って述べている。 

「マチエールということばを使いましたが、それは人でいえば、においとか温もりとか、冷淡さとか、あるいは抱きあったときの感触とか、つまり質感や手触りや痛覚のことです。そういう交感可能だったものがいま、交感不可能になっているのではないかとおもうのです。ぼくはつよいショックを受けたのですが、かれは携帯電話を二台もっていて、一台の携帯電話に別の携帯電話からメールを送信していた。つまり、自分で自分にメールするわけです。それは、おそらくこの青年だけではないでしょう。ぼくはこの衝動がわからないようでよくわかる気がします。

『いまここに在ることの恥』毎日新聞社、2006年。のち角川文庫、2010年、25ページ。

 

カブール郊外の果樹園上空で爆発した爆弾の細長い金属片で、一部は熱で飴のように溶け曲がっている。爆弾というもののマチエールというか触感を私は説明したかったのだ。戦争が抽象化され血抜きされて語られることに対し、どこまでも冷たい死の質感でもって反駁したかった。「破片に触ってみてください。それが体にぶすぶすと突き刺さるのです。臓脈や骨にその破片が食いこむ。

『たんば色の覚書 私たちの日常』毎日新聞社、2007年。のち角川文庫、2011年、190ページ。

  実感に呪縛され実感できない事は信じないという事態は、そもそもあやふやな実感を一層幻想化し過大に評価することにつながっていく。

 人間の五感によって現実認識をもたらすマチエールであるのだが、はたして原質を介してどのように感触は認識されるのか。「実感」といってもその虚実は明白なものではないのではないか。

 マチエールが確認されるのは、対象主体と相互作用する場合である。それが欠落していると虚なる疑似媒体によってでも「実感信仰」へと傾斜していく。

 権力が国民に実感させる術を駆使し統治することはたやすい。数字のマジックと集団心理を操作すればよいのだ。「国難」という語を使って恐怖の共有へと転換させていく。そのための「実感」が工作されるのだ。

 そこでは権力者によってつくられる「実感」を国民は「実感」しているだけであって、マチエールに必須の交感が欠落しているのである。

 じつは、あの事件を知ったときに、ぼくはあまり驚かなかったのです。そういう自分に不思議だった。それと、捕まった青年が印象に残らないぐらい普通だった。逆にその手ごたえのなさにすごく驚いたわけです。かれ自身にあまりマチエールがない。絶叫して「これが正しどとか、「だからおれは人を殺したんだ」ということがない。ぼくにはかれがこのメディア社会の所産のようにも見えたのです。つるつるのモニター画面から生まれてきたみたいな。そのことと切りはなしてこの問題は語れないだろう。

『いまここに在ることの恥』毎日新聞社、2006年、28ページ。

 いまやマチエールは「実物」に限定されることはなくなった。バーチャル・リアリティが実感の媒体性を帯びるようになっている。疑似リアリティとにもかかわらずそれがリアリティとして受け取られる。ビットコイン、3D空間、擬似HP、ポケモンGO、Web上での農作物栽培やバーチャル恋愛。これらはサイバー空間での現象ではあるが、それらとの意識交換は確実に生体反応との間に原質的なものとして認識されるようになっている。

  この背景には「情報消費市場社会」化とマスメディアという意識産業を利用した策謀があり、「もの」から「こと」への移行や「情報消費」が商品化社会の主流になったことを意味する。しかもそれがリアル世界での人間の実感を促す際の基準になったりする。

 情報の生産・流通・消費過程での非実物マチエールとしての情報が、原質的なものとなりそれ抜きではリアルを「実感」できなくなっているのである。

 そこには、情報生産者と情報の生産・流通実態が受信者に見えないという大きな問題がある。

  このような時代に個人がマチエールを求めるのであれば、情報消費市場社会から脱するか、それともことの本質を看破する眼力を獲得し、自らの情報識別力と想像力・再編集力の強化で対処することになる。 

 政治もマスメディアも、その実相というのか、社会の傷口の本当の手触り、マチエールを表現する意欲がないとおもう。コーティングされたことばで適当に分類しているにすぎない。この皮膜を、ペイントを引つばがしたらどういう世界が見えてくるのか。やはりそれはやらなければいけないとおもうのです」。

『しのびよる破局 生体の悲鳴が聞こえるか』大月書店、2009年。のち角川文庫、2010年、98ページ。

 

 どうしても避けることができないのは、さっきいったような誠実とか愛とか尊厳ということばを、商品世界のコマーシャルみたいな次元に全部うばわれている、つまり悪は悪の顔をしていないというときに、やっぱり本来のマチエール、愛にせよ誠実にせよ人間の尊厳にせよ、言語の実質、実感というものを取りもどすことだとおもいます。マチエールは簡単なものではないのです。触ってあったかいとか、においとか、それはマチエールといえばマチエールですが、それだけではない。もっとつたわってくる、深いもので、それには言語がかかわっているとおもうのです。

『同上書』117ページ。

 

50.谷川雁の暗喩

 谷川雁という詩人・評論家がいた。今から50~60年前のことである。

  「原点が存在する」「東京にゆくな」などのメッセージに当時の若者の一部は心を震わせたのだった。谷川は北九州の大正炭鉱で戦闘的炭鉱労働者からなる「大正行動隊」を組織し、永久工作者として活動した。自立学校を提起し、サークル村活動も展開した。 

 だが、やがて闘争から退く。上京して語学教育会社の役員に就任。その転身・変節は学生運動家たちの批判の的にもなった。 

 「季節はめぐり、この世の老斑はひろがる。私自身もはや日日の壁のそとに遊ぶまぽろしをもたない〈喩としての死刑囚〉です」と、谷川雁はその晩年、獄中の永山則夫への私信のかたちをとって書いたことがある(『すばる』一九九○年八月号「極楽ですか」)。この表現を、私は特段嫌ってはいない。

 ただ、〈喩(ゆ)としての死刑囚〉が、どうしても気になる。〈喩としての死刑囚〉とは、含意するものがどうあれ、あるいはある種の話術としては通用するにせよ、生身の死刑囚の側からすれば、絶望的につりあわない、お気楽ないい草なのではないか。生身の死刑囚を想定するとき、獄外の者が巧(たく)む、「死刑囚」という言葉を取りこんだ暗喩は、それがいかに巧みでも、痛切な暗喩としてはどうしても立ち上がらないのである。仮に「私は娑婆にあるけれど、観念の死刑囚なのである」といったとしても、現実の確定死刑囚に言葉が向けられているならば、同様に能天気みたいなものなのだ。暗喩の主が、内心、自死を志していようが、老いか病による死期が近かづいていようが、表現としては決定的に軽佻(けいちょう)になってしまう。

  理由は簡単である。死刑囚の想念の、ときとして悶死(もんし)せんばかりの凄まじい重量は、外部のいかなる暗喩ともつりあうことがないからなのだ。死刑囚という獄中の表現者と獄外の表現者の関係性は、両者の内面の質量を厳密に問うならば、フェアな成り立ちが絶望的に難しいともいえる。つまり、〈喩としての死刑囚〉のたぐいは、獄外者の表現のお遊びになりかねない。死刑制度があるかぎり、そうなのである。そのことを忘れるな、と私は自身にいわなくてはならない。

 辺見庸『記憶と沈黙 辺見庸コレクション1 』毎日新聞社、2007年、48-49ページ。

  谷川雁は、吉本隆明と雑誌「試行」を創刊し一時期活動をともにしたことがある。二人は左翼運動のイデオローグとして、また一種の「カリスマ」としての発言は、旧左翼の教条的・硬直的な批判のムーブメントを起こした。

  谷川雁は、民衆の理想のまぼろしこそ「村落協同生活」「東洋的共同体」の底辺にあり、「孔子の治国平天下」に対応する現実の歴史的存在であるとした。彼の農本型土着思想では、日本人の生活の根部で動いている意識性こそ乏しいが力強い暗さとかがやきを見つめ、そのエネルギーを組織するよりほかないと断じたのだった(「東洋の村の入り口で」「組織とエネルギー」『原点が存在する』現代思潮社)。

  だが、局所的な「決起」を促しはしたが持続することはなかった。巧みなレトリックで編まれた詩や評論は「革命の詩興」の域を出ることがなかったのである。

  彼の発想は、「独創的」な論説となってあらわれたりした。例えば多数の独立水系からなる日本の国土の特徴が、日本民族が統一を求める根拠になり、それが天皇制の心的背景にあると述べたりもしている。

 今からすれば辺境、最深底辺部の重視ゆえの逆立した発想からの「荒唐無稽」な論説なのだが、詩人の閃きによって導き出されたものであったのだろうか。

49.辺見庸 ~こだわり、生き方、性格、好悪~

 辺見庸という人はどういう人か? 彼は自ら率直に著作のなかで語っている。あくまでも自己認識なので、そのまま「実際の」人柄・性質とはいえないにしろ、また、彼が小説家・詩人であることも考慮して受け取らなければならないだろうが、別に自分に「虚飾」を施すこともないとするのが彼の信条であると思われる。そのまま受け取ってもよいのではないか。

 

性格、性向

「わたしは自分という人間を、根はとてつもなく明るいけれども、世界観というか未来観についてはひどいペシミストだと思います。とても暗い。なぜそうなったかというと、通信社の記者生活で戦場取材を多く経験した影響もあるのだろうけれど、たぶん、子どものころからいろいろな気配と予感のうちに生きてきたからです。わたしが育った石巻および三陸の沿岸都市は、つねに、気配、兆しというものを孕んでいた。わたしは太平洋沿いの海岸近くに住んでいて、いつも潮騒と海鳴りを聞きながら、なにかの気配を感じていた。耳の底にはいまでも、遠雷のような低い響きがあります。海のうねりが磯でくだけるときに空気とこすれ、空気をまきこんで発する音が海鳴りですが、それは台風や津波などがくる前兆とされていました。気配、兆しとは、これから、いつか正確にはわからないけれども、今後にやってくるもの、襲ってくることの見えないさきがけです。その気配、兆しというのは、いったいなにかということをずっと考えながら育ってきたのです」。

『瓦礫の中から言葉を わたしの〈死者〉へ』NHK出版、2012年、46ページ。 

 

「私の顕著な特徴はですね、「善」よりも「悪」に魅力を感じるという、類いまれといいますか、自分でもどうにもならない性癖があります.何が善で何が悪か、語れば尽きませんが、ゲーテの「ファウスト』でいえば、メフィストフェレスのほうが魅力があるという意味合いで、私は「悪」に対してとても興味と親近感を持っているということであります.それが私の自己紹介のようなものになるかもしれません」。

『いま語りえぬことのために―死刑と新しいファシズム毎日新聞社、2013年、42ページ。

  

「往々、品位を欠いてしまうのは、しかも、ほんのちょっぴりではなく著しくそれを欠くのは、残念だけれも、隠しても隠しきれない下卑た本性の然らしからしめるところなのだろう」。

『ゆで卵』角川書店、1995年、275ページ。 

 

「古い言葉だけど、ぼくはネアカなんですよ。手術のころは身体中にチューブをつけたまま下手な冗談を言ってました。ぼくの人生ってのは、どのみち半ば以上にジョークみたいなものだ、という不謹慎な考えが抜けないんです」。

『記憶と沈黙 辺見庸コレクション1』毎日新聞社、2007年、104ページ。

 

「子供のころから親や学校の先生に叱られ、私自身も恥じていたことで、いまもなおまったく矯正できていないどころか、ますます昂じていることに、性格のだらしなさというのがある。とりわけ、ものの整理というのが悲しくなるほどできない。ものが四方に散らかり収拾のつかなくなった風景は、身のまわりにいつもごちゃごちゃと展開しているだけでなく、じつのところ、私の内面そのものでもあります、と告白せざるをえない」。

『独航記』角川書店、1999年、415ページ。

 

こだわり

「詩壇、文壇には一切関係しない、というのが私の主義です。なんでもひとりでやる。文学なんて徒党を組んでやるものじゃない。本当に不思議でしょうがないですよ。なぜ詩というものが結社をつくるのか。それで、戦時中にはみんなして裏切って、戦争協力句というのが俳句にもあったでしょう」。

『明日なき今日  眩く視界のなかで』毎日新聞社、2012年、150-151ページ。

 

「子供のころの夢は、作家になることでも記者になることでもなくて、音楽家になることだった。作曲家というのでなく演奏者、それも、場末の闇で雨に濡れた犬のように惨めな目をして曲を奏でている、なんとか弾きといわれても、なんとかイストとは決していわれないような男がいい、と思っていた。ひねくれていたのだ」。

『反逆する風景』講談社、1995年、187ページ。

 

隠し芸

「俺も裸になった。別にそれが思想とかいうのではなくて、俺はできなかった。できないので、尻を振って、チンチンをブルンブルン回してみせた。プロペラみたいに。数少ない俺の芸の一つだ」。

『美と破局 辺見庸コレクション3』毎日新聞社、2009年、229ページ。

 

好きな言葉

「私の好きな日本語に「潜思」という言葉があります。心をしずめて深く考えることで、潜思黙想という表現もあります」。

『いまここに在ることの恥』毎日新聞社、2006年、81ページ。

 

好悪

「私はそれほど物事に熱心じゃないといいますか、飽きっぽいところがあるので、うまく重ならないですね。麻原は逆説的ですが、人好きに見えます。僕はどうもこのところ人嫌いですし。それに、世界最終戦争みたいな問題の立て方が僕は苦手です」。

『新・屈せざる者たち』朝日新聞社、1998年、63ページ。

 

「適度に堂々と人間は気違いじみた時間を持たないと、どうしてもシワ寄せや歪みが出てきそうな気がしますね。夜は別の人格になれたりする、ジキルとハイドじゃないですけれど」。

『夜と女と毛沢東吉本隆明辺見庸文藝春秋、1997年、82ページ。

 

 観覧車好き、趣味としてのフルート、ジョギング(手術前まで)、絵画・音楽・映画・写真などの鑑賞(素人の域を超える)。 

48.性、エロス

 生体としての人間にとって、食と睡眠と性は大きなウエイトを占める。それぞれについて辺見庸の作品をあげると、食については『もの喰う人びと』、睡眠については『自動起床装置』、性については『ゆで卵』『赤い橋の下のぬるい水』といったところが思い浮かぶ。もちろんこれら以外の作品でも食と睡眠と性は取り上げられている。

 辺見庸の「内宇宙」は、政治、経済、社会、芸術等とともに、位相は異なるものの性と食と睡眠が重要な位置を占めており、それらを自由に表現することに辺見は何ら躊躇することはない。

  とりわけ性・エロスに関しても隠すことなく赤裸々に表現することの基底には、辺見の反権力、反権威の姿勢からサンクチュアリの存在の罪を突くこと、さらには「瀆神」(「神」というのは聖なるもの一般。別に天皇だけではない)の意識があると思われるし禁中の薄明や、覗いてはいけない、触れてはいけないという、闇のなかの微妙な神経細胞のようなもの(天皇の告別式の場)への反発があるとも考えられる。『いま語りえぬことのために―死刑と新しいファシズム』などを読んでいるとふとそう思う。 

  しかもそこには辺見の少年期を過ごした石巻の海岸や松林で目撃し体験したことが、彼の精神の地下茎として根付いていてそれが絡んでいる、そんなことにも思い至る(既述の「下降志向」の項を参照されたい)。 

 辺見庸の性とエロスの原初生命に強く傾斜した認識は、故郷石巻の海辺で見聞したことや幼いころの体験など、それらが彼の精神の地下茎に根付き絡まり育まれたと考える。 

 辺見は小説以外でも戦地や社会問題を扱う場面や日常のなかで性を描いている。チェルノブイリ原発近くの廃墟となった町での車中でのガイドと通訳の行為、ダッカの市内の植え込みで仰向けになった男の陽根と自慰、ブータンの首都ティンプーでの黒犬の交尾、観覧車がある遊園地でフレミッシュ・ジャイアント(世界一大きなウサギ)の交尾、東京神谷町で仕事場にしていた部屋の隣室に住む黒人に会いに来る女たちが繰り広げる行為での仰天するほどの嬌声など。 

吉本:僕は以前、ある編集者から「吉本さん、自分のセックスについてどう思いますか?」っていきなりストレートに訊かれたことがありましてね、僕も率直に答えたんです。「だいたい文筆業というのは性的な欲求をひどく減殺するもので、こんなこと長年やってたらセックスは衰えるに決まってる。もしかりに精力絶倫だったら、文筆業なんかやらない。文筆業者であっちも旺盛という人がいたらお目にかかりたいよ」って。まあ、僕はそう言いましたけど、辺見さんならどう言います?

辺見:女から「あなた、文章は最低だけど性格は最高だ」と言われるのと、「性格は最低だけど文章はいい」と言われるのと、もう一つ、「あなたは書くものもくだらないし性格も最低だけど、あっちのほうだけは凄い」と言われるのと、何が一番いいと思うか?吉本さんなら何を選びます?

 吉本:う-ん。

辺見:僕は絶対に三番目だな(笑)。セックスが最高だと言われるのが、僕の夢ですね、というより人間的にそうあるべきじゃないかとどこかで思っている。現実にはまったくそうではないから、ものを書いたり理屈をこねたりしているわけですが、三番目が理想でしょう。

吉本:やっぱりそれは理想ではありますよね。

辺見:ええ。これ、僕、大真面目に言っているんです。抽象的にではなくて、具体的に見れば、人間なんてたかだかそんなものでしょう。しかし残念ながら、そういう視点が今までの性愛論には悉く抜け落ちていたように思えるんですよ。このことを下賤として排除しちゃいけない。

『夜と女と毛沢東吉本隆明辺見庸、文春文庫、2000年、125-126ページ。

 性のマチエール、女性の精神性と利己的遺伝子、エロスの心的溶解力。これらにはよくわからない部分がどうしても残る。

漱石って人はどうやら、女は世界の外からやってくる異類・マレビトの女類だと思っていた節がありますね。つまり、社会の中に男がいて女がいてというふうには思っていなくて、世界の実質は男だけでできている、だから女の人は世界の外からやってくるものだと感じている。それからもう一つ、女の人は結婚すると必ず悪くなると漱石は堅く信じていたんじゃないか。そういう点、とても共感するんです。この人は結局、家庭生活で奥さんとうまく和解できなかった人じゃないか、もっと言えば、女性というものを結局よくわからなかった人じゃないか、と思うんです。

『同上書』151ページ。

 性やエロスを辺見は赤裸々に描いている。そこに女性への差別意識は全くない。(田川建三は『思想の危険について』(5章)で、吉本隆明の思考における女性差別を批判しているが、そのような差別は辺見には皆無である)。かといってジェンダーとか一般的な男女平等論をベースにするわけでもなく、いわば基本は人間として同等である男女が、性・エロスではモノクロではなく「色づく」という感覚である。だからこそ『卵』や『赤い橋』での通常はきわどいモチーフでも、あくまでも男女の自由な内宇宙での営みの風景の一つとして読み進むことができるのだと思う(ただし、そのモチーフはとりたてて奇異なものではなく、作者のモチーフ選択意図が目につきおおらかさに欠ける)。

 

 白人女性の喜びようといったらない。白人の男たちはそのことを無意識に知ってるんだと思うんです。陸上競技やバスケットボール、アメフット、ボクシングだけでなく、セックスも白人男はアフロアメリカンに負けるんですね。白人の男たちは少なくとも、そう幻想している。ですから、彼らの目には白人女性の顔が性的な喜びというより、凌辱されているものとしか映らない。自分がむしろ犯されてるという感じ、白人の男が黒人の男にね。これまた、黒人への差別なのです。アフロァメリカンだっていくらでも弱い者もいるのですが、性が絡むと「公正」はなくなり、底暗いルサンチマンが頭をもたげるのですね。

『同上書』130ページ。

 

<補遺>

河野多恵子との対談: 「エロスと時代」『新潮』1996年4月号。

 

辺見:性は特に……。書かなくてもかかわってきますね。社会観、世界認識というのは性的トラウマ、コンプレックスの投影でもあるわけですから。セックスもジェンダーも、きわめて不安定で、ヒトという名称の疫病をよく示していますよね。大体、オルガスムス自体、愛そのものではなくて、ある種の社会的通貨でもあるし。

(165ページ)

 

辺見:性愛ということで言えば、ひとつは、行為としての性愛というのは、何か背理するもの、あるいは違反するものがないと、まったくおもしろくない。

辺見:時代が性愛の深さみたいなものを奪っているような気がします。劣情が今の世の中ではほとんど劣情たり得ない・・・。

(154ページ)

 

辺見:やっぱり性愛というものには、言葉が必要なんだなと。

河野:言葉というのはかなり嗜癖的。

辺見:しかも、相手に、その言葉に対する共鳴感がないと成立しないですね、あれは。

河野:どういう性愛の場合でも、言葉の刺激性の参加があるわけでしょう。

(155ページ)

 

辺見:今は身内から湧いてくるんじゃなくて、食欲と同じように、情報に頼らざるを得ない。逆に今の方がよほど倒錯的ではないかと思いますけどね。

(156ページ)

 

辺見:僕は水フェティシストみたいですけど(笑)、ぜんぜん逆に考える人たちもいる。 歴史と空間によってフェティシズムの対象は無限に違う。

(160ページ )

 

辺見:我々の日常のほうが異様なものを秘めてるなとよいうふうに思います。

大状況にしっかり背を向けて、性愛というものを、ある意味で真摯な姿勢で書き抜くこともまた僕はやっぱりもの書きの覚悟として大事であろうというふうに思いますね。それが今書きにくくはあると思いますよ。

(166ページ)