辺見庸 研究 ~内宇宙への旅~

辺見庸の発言は、ときに「荒れ球」や「魔球」もあるが、「剛速球」が身上である。その根源にある思考とは何か。

61.「不条理な」苦痛

 今日の世界情勢として政治の右傾化、排外主義の台頭がある。それは「トランプ現象」に顕著に表れているのだが、日本にも当てはまることである。

 逸見庸は『いま、抗暴のときに』で、次のような主旨のことを述べている。十数年も前のことだ。

 ドブレは前掲書で憂いがちにいっていた。「技術の進歩は不可逆だが、政治は可逆的なものだ。つまり、政治には進歩はないということだ」。人間的なるものは技術的進歩に追いついていないし永遠に追いつくことはない。そこで現出したのがすなわち高度技術社会における不可視の精神遅滞ないし獣性である。

『いま、抗暴のときに』毎日新聞社、2003年。のち講談社文庫、2005年、84-85ページ。(なお、文中の前掲書とは、ドブレ『革命の中の革命』(晶文社))

  歴史が技術と同様に進歩するのであれば、原始・古代・封建・近代・現代の推移として、人間(人類)の情意における俗や劣は精錬された「精」(叡智)を内包して現出しているはずであるし、それが未来において大きく広がると予感されるに至っているはずである。

 そうならずに人間は「精神遅滞ないし獣性」を引きずっているのだから、「人間の不完全性を歴史はいつまでも刻み続けている」とわかったように佇み、利己に閉じこもっていると、次に来るのは核兵器の使用による滅亡である。 

 「ぼくは無機物論者ですから、そういうもの(生れ変わり:筆者註)はなくても平気なんです。だけど、生きている間はイメージのなかで平和共存とか、南無阿弥陀仏とかありますけれども、平和共存と何回も繰り返すよりも、南無阿弥陀仏で極楽に往生するということがより広く、より長続きする一つの考え方だと思うんです。平和共存というものは、非常にあやふやなものでしょう。しかし絶対他力というものはね、全部救いがないというときに浮かび上がってくるイメージですから、そのほうに賭けるわけです。生きている間はですよ。だけど、本心は無機物に帰するに過ぎない。地球上のすべての生物はやがて腐って、消えゆくものですね。腐って消えてゆかなかったら、存在というものはできないでしょう。(中略)腐って消えていって、滅びてしまうということがあってですね、うまく調和がとれているのであって、それはぼくは自然科学的に考えているわけです。」

 武田泰淳『館田泰淳全集 別巻二』筑摩書房、1979年、198ページ。

 しかし、人類がこの地球で無機物になる前に平和共存を、他力本願と言われようが、それが非常にあやふやなものであろうが、矛盾に対峙しながら唱え続ける。または辺見の言うように、

 いわゆる「反社会的」思想の助けも借りなければならないし、まずもって「反社会的」という世にも恥ずかしい言葉を捨てることからはじめなければならない(辺見庸『同上書』85ページ)。

 かつてのローマ帝国がそうであったように、米国は自国の仕業に起因したことどもを顧みず「逆切れ」し、気に入らないものを排除・抑圧する。抵抗や反乱が必至なことは自明である。

 資本に精(叡知)など皆無、権力・権威もしかり。言葉だけによる理念やロマンもまたしかり。押し付けられ誘起された自己犠牲ではなく、個として主体的な自己否定(批判的主体形成)を通じて「脱・精神遅滞ないし獣性」を具現する。  

 技術の進歩に比べた場合の政治の可逆性ないし退行。人間の情意が俗や劣から脱することができずに引き戻されるが、進歩の規準はある。

 人類(歴史)の進歩は、人々の利便性と快適性をひたすら追求する技術における進歩とまったく異質なのである。

 「不条理な」苦痛―つまり各人が自分の責任を問われる必要のないことから負わされる苦痛―を減らさなければならない、という価値理念に歴史の進歩の規準が求められる。

(出典:市井三郎(1971)『歴史の進歩とはなにか』岩波書店、208ページ)。

 障がい者、被差別者、被災者、難民、その他諸々の不条理に見舞われている人たちの苦痛をいかに減らすことができるか。

歴史の進歩を刻む。その取り組みのなかで、各人が問われる責任を、各人の置かれた情況や暮らしにおいて自覚し行動に移し主体形成へと進んでゆく。

 「他業自得」を基底に「自業自得化」してなにか新しいもの(新しい自分をふくむ)をつくりだす。その営為のなかに自由がある。 小山俊一はサルトルの所説を、そのように理解したのであったが、一言つけ加える。「説教ならまだしもだ」と。

58.十字架

 石原吉郎はふつうに生きることを否定した。生きていることがむしろ不正常だという考え方が、経験的にも彼にはあった。石原という非生産的でネガティブな人、あらかじめ緩慢な自死を定められてきた人―。知る限りで何人か思い浮かぶけれど、たとえば尾形亀之助がそうだったのではないか。(中略)

 ただ、尾形の正確な末路はよくわからないけど、いわゆる自餓死と言われている。ハーマン・メルビルの『バートルビー』にも喩えられるかもしれないが、そのバートルビー的なものが石原にもまったくないわけではなかった。(中略)

 「私が理想とする世界とは、すべての人が苦行者のように、重い憂愁と忍苦の表情を浮かべている世界である。それ以外の世界は、私にはゆるすことのできないものである」ということを彼は言う。

辺見庸『もう戦争がはじまっている』河出書房新社、2015年、236―237ページ。)   

 

 人にとって「十字架」とは何か。イエス・キリストの「受難」そして「磔刑」に象徴される十字架ではあるが、十字架はイエスの受難だけを意味するだけでなく、ひろく人間に共通する罪業にかかわることである。イエスは人類の罪業を「すべての人に代わって」一人で引き受け、そして「磔刑」にあった。そこからキリスト教が生まれキリスト信仰が全世界に広められたのだが、その後、イエスの教えの異元化が世界中で行われることになろうとは。

 人が生きていくうえで、受難が不可避で宿命的であるとさえいえる。人間関係や人間社会、国家がもつ(もたざるを得ない)権力や権威は、個々の人びとの自由を制限し奪い去る。基本的な権利を侵す。人は何らかの罪を犯さない人はいない。クライムとスィンは人が生きるうえで不可避である。そもそも人は、他の生を奪うことなく、また他を傷つけることなく生きるということはできないのだ。

そのような意味でも、人は十字架を背負っている。

 

 石原吉郎は、召集拒否(兵役拒否)をすすめられたがそれを拒否して応召し、情報要員として教育訓練を受けたのち満州にわたり関東軍に属した。

 その前にキリスト教の洗礼を受けているが、結果的に戦争に加担するキリスト教に対する批判的な目はもちえなかった。

 1945年、日本は敗戦。ハルビンで密告によりソ連軍に拘束され、戦犯者としてシベリアに抑留されるが、石原が戦争加害者としての認識をいつ、どのように銘記したのかは本人しかわからない。

 石原吉郎は述べる。「私は広島について、どのような発言をする意志ももたないが、それは、私が広島の目撃者でないというただ一つの理由からである。私は告発しない。ただ自分の〈位置〉に立つ。」と。敗戦後8年間のシベリア強制収容所での「均一化された繰り返される生死の境での日々」の体験からの発語である。

 これに対して逸見庸は「目撃していないから発言しないというのではなく、視えない死をも視ようとすることが、いま単独者のなすべきことではないのか。」と批判する。

 石原はそれでも「他の生を犠牲にしてしか生きられない人間の罪業」を犯してきた自責の念から告発しない単独者を貫いた(ジャイナ教との異同はここでは触れない)。

 

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石原吉郎の「自編年譜」より

1938年(昭和13年)23歳

 東京外語卒業。大阪ガス入社。キリスト教に関心をもち、住吉教会を訪ね、ここでカール・バルトに直接師事したエゴン・ヘッセル氏に会う。住吉教会にあきたらず姫松教会に移る。同教会でヘッセル氏より洗礼を受ける。

1939年(昭和14年)24歳。

 九月神学校入学を決意し、(大阪ガスを)退職。上京。ヘッセル氏のすすめにより、当時新鋭のバルト神学者の牧会する信濃町教会へ転籍。東京神学校入学の受験準備を始める。十一月集を受ける。ヘッセル氏から召集拒否をすすめられたが応召(ヘッセル氏はすでにドイツ本国からの召集を拒否しており、米国へ亡命した)。

 その後、石原は情報要員として軍事教育を受け、関東軍司令部に所属、満州へ。敗戦後にシベリアに8年間、強制収容され、1953年に帰還した。

 

 

57.講演会(1月30日)のこと

 辺見庸の右目が見えなくなった、体を激痛が走る、「エベレスト」にも最近は登っていない、という。右目は手術しなければならず入院は7日ほど。左目も問題ありとのことだ。

 今年の1月7日からのブログ「私事片々」は2017年1月23日でいったん途切れ、その後、再開されたものの1月25日にまた消えた(削除された)。

 それによると、労組の研修会には行き、片目で話したとのこと。だが、彼のブログの文章量は極端に少なくなり、以前のような「粘着性」は薄らいでいる。

 身近な家族が辺見から去って久しい。

辺見庸)「私は傷つけた人々に私だけの重い責任を負うている。それは事実だ。そこから逃げようとはしていないし、ごまかそうとも思わない。家の問題は大したことがなく、世界の問題は重いから二者を分離し、前者を語らないというわけではないのだ」。(『自分自身への審問』毎日新聞社、2006年。173ページ)。

   不自由な体では歩くこともままならない。ときにマックでダブルチーズバーガービッグマックを食べ、又は定食屋に行き、喫茶店でしばしくつろぐのが精いっぱいであったのだ。

 昨年12月5日、八重洲ブックセンターでの講演が無事終わった後、辺見の体調は悪化していった。

 死刑制度に関する朝日新聞からの取材に応じたものの、記事の内容は辺見が答えたものと程遠く貧寒たるものだった。劣悪な見識の持ち主の米国大統領就任、国内では共謀罪の国会可決への動き。それ以外にも彼自身の諸事情もあるだろう。

 それでも年明けの1月30日の新宿での講演会には予定通り行くと辺見はブログで書いている。

『1★9★3★7』を書きあげ、彼としては思索・著作活動の「総括」をしたとの思いがある一方、情況への憤怒を表現しないわけにはいかないのだろう。それは体調や年齢を超える陰熱によるものかもしれない。 

 辺見庸は10年ほど前には、人前で語ることについて次のような感慨を持っていた。彼らしい気概と照れが交錯している。

 私ひとりのこととしては、羞じどころかそこはかとない頽廃の臭いさえ嗅ぐこともあった。大勢の人を前に一段高いところからひとしきりなにごとか偉そうに話す自分に、だ。旧年はそれが堪えがたいほど多くつづき、私は聴衆に向かって声張りあげては内心「なんてこった」と声なくおのれを呪い、回を重ねるごとに厚顔の度を増す一方で、少しは静かにまつとうに生きたいという私なりの気組みがいやな音をたてて崩れていくのを感じていた。

 聴衆が私の話に昂揚しはじめれば、私は彼らの高ぶる心の波をさらに高ぶらせようと案をめぐらし、それが奏功したりすると怪しげな快感のようなものすら覚え、内心かえってぞっとしたこともある。私は自分が年来もっとも軽蔑していた口舌の徒になりさがっていた。

 それでも人前で話すことをやめなかったのは、いいわけめくけれども、古くから胸底にこびりついていた二つの沈黙の言葉が異常に発酵して体内に充満し私をいらだたせたからでもある。

『記憶と沈黙 辺見庸コレクション1 』毎日新聞社、2007年、182-183ページ。

  だが、2004年、新潟での講演中に脳出血で倒れて以来、治療を受けながら懸命のリハビリに努め、体力・気力を回復させてきたものの、後遺症は容易に寛解しない。それどころか徐々に彼の心身は弱っていった。ブログからはそう読める。

  今月1月30日に新宿紀伊国屋ホールで開催される講演会については少し様子が異なる。

 紀伊国屋ホールでの講演会、彼の姿を一目見て、そして話を聞きたい人は少なくないだろう。しかし、『1★9★3★7』を「なめるように」読めばいいのだ。『死と滅亡のパンセ』『明日なき今日』『国家、人間あるいは狂気についてのノート』などを再読すればいい。

 昨年春に他界した彼の母親(「昨春の母の他界(2017/01/13のブログ「私事片々」)も、辺見庸が早く会いに来ることを決して望んでいないはずである。

 

53.単独者としての行動

 被害者であり、かつ加害者である人間は、いかに実存者・単独者になりえるか。自由な存在への足場を得られるのか。辺見の思考に大きな影響を及ぼした石原吉郎、その石原を驚愕させた鹿野武一とは。

 シベリア強制収容所での鹿野の異様な行動に、その鍵を見出すことができる。そこには観念でもなく、言葉だけでもない、人間の罪業(スィン)を直視した末の自己否定がある。

 『海を流れる河』石原吉郎花神社のページを繰ってみよう。

 

  「ひたすら存続をねがう」こと、それは無理由の存続、他者の存続、他者の生命を犯してでも生きのびざるをえない自我の存続である。p.26.

 生きのこることは至上命題である。→そのためにこそ適応しなければならない。→そのためにこそ堕落はやむをえない。 p.43.

  彼の行為を自己否定ないし自己放棄とみなすことから、ようやく私は、自己処罰ということばに行きあたった。p.28.

 

 彼はいかなる刑罰を欲したのか。体刑である。

(中略)

 労働についての彼の独自の考え方は、おそらくは強制労働のなかで身につけた実感であろう。肉体が担った苦痛こそが、刑罰の名に値する。そして体刑のそのなまなましい痛みを、沈黙して耐える姿勢が、本来加害者である一人の被害者を平均化された被害者の群れから峻別する。その時はじめて、一人の単独者がうまれる。それが彼の考えた「自由」であり(それはストイシズムとはおよそ別のものである)、自己否定ではなかったかと私は考える。p.30.

「人間は本来なんびとを裁く資格も持っていない。なぜか。人間は本来「有罪」だからである。p.29.

 自己否定による単独者としての自由の獲得、それは収容所だけのことではない。追いつめられた極限状況下でも、そして日常においてもそれはある。石原は次のように記す。

 日常とは、日常の「異常さ」に謂である。日常をささえるとは、いわばこの異常さへ自覚的にかかわって行くことにほかならない。(中略)それは闘争というような救いある過程ではない。自分自身の腐食と溶解の過程を、どれだけ先へ引きのばせるかという、さいごにひとつだけのこされた努力なのである、p.16.

  ではどこに希望があるかと、人は問うだろう。それにたいして、ほとんど私は答えるすべを知らない。ただ、私にかろうじて、しかも自己のことばの責任においていえることは、逃げるな、負えるものはすべて負ってその位置へうずくまれということである。なまなかな未来を口にしないこと。そのことを、あらためて自己の決意とするということである。pp.16-17.

 

 この石原について、辺見庸はこんな発言をしている。

「(鹿野武一が)行列をつくるときに一番最初にやられる外側の列に立ったことを、ことさらに石原さんは書く。今度はそれを自分に反射させて、自分を告発していくやり方。あれはいったいなんなのか。ぼくは、それをしも馬鹿にするニヒリズムが、彼にはなかったのだと思う。それこそニッポン軍国主義じゃないか、あるいは天皇主義的ボナパルティズムじゃないか、という考えが彼にはなかった」(『もう戦争がはじまっている』河出書房新社2015年)。

 

 だが、これは辺見にしては珍しくその視角を誤っていると言わざるを得ない。石原吉郎にとっての鹿野武一は、自己処罰によって天皇および天皇主義的ボナパルティズムからも脱する単独者と捉えられていたと解するべきではないか。

 そこにおいては、抗議行動として、焼身自殺を図る者の思考と行動に通じるものを見る。そのような視点から鹿野武一を捉えるべきではないのか。

 

 

 

 

 

50.谷川雁の暗喩

 谷川雁という詩人・評論家がいた。今から50~60年前のことである。

  「原点が存在する」「東京にゆくな」などのメッセージに当時の若者の一部は心を震わしたのだった。谷川は北九州の大正炭鉱で戦闘的炭鉱労働者からなる「大正行動隊」を組織し、永久工作者として活動した。自立学校を提起し、サークル村活動も展開した。 

 だが、やがて闘争から退く。上京して語学教育会社の役員に就任。その転身・変節は学生運動家たちの批判の的にもなった。 

 

 「季節はめぐり、この世の老斑はひろがる。私自身もはや日日の壁のそとに遊ぶまぽろしをもたない〈喩としての死刑囚〉です」と、谷川雁はその晩年、獄中の永山則夫への私信のかたちをとって書いたことがある(『すばる』一九九○年八月号「極楽ですか」)。この表現を、私は特段嫌ってはいない。

 ただ、〈喩(ゆ)としての死刑囚〉が、どうしても気になる。〈喩としての死刑囚〉とは、含意するものがどうあれ、あるいはある種の話術としては通用するにせよ、生身の死刑囚の側からすれば、絶望的につりあわない、お気楽ないい草なのではないか。生身の死刑囚を想定するとき、獄外の者が巧(たく)む、「死刑囚」という言葉を取りこんだ暗喩は、それがいかに巧みでも、痛切な暗喩としてはどうしても立ち上がらないのである。

 仮に「私は娑婆にあるけれど、観念の死刑囚なのである」といったとしても、現実の確定死刑囚に言葉が向けられているならば、同様に能天気みたいなものなのだ。暗喩の主が、内心、自死を志していようが、老いか病による死期が近かづいていようが、表現としては決定的に軽佻(けいちょう)になってしまう。

  理由は簡単である。死刑囚の想念の、ときとして悶死(もんし)せんばかりの凄まじい重量は、外部のいかなる暗喩ともつりあうことがないからなのだ。死刑囚という獄中の表現者と獄外の表現者の関係性は、両者の内面の質量を厳密に問うならば、フェアな成り立ちが絶望的に難しいともいえる。つまり、〈喩としての死刑囚〉のたぐいは、獄外者の表現のお遊びになりかねない。死刑制度があるかぎり、そうなのである。そのことを忘れるな、と私は自身にいわなくてはならない。

 辺見庸『記憶と沈黙 辺見庸コレクション1 』毎日新聞社、2007年、48-49ページ。

  

 谷川雁は、吉本隆明と雑誌「試行」を創刊し一時期活動をともにしたことがある。二人は左翼運動のイデオローグとして、また一種の「カリスマ」としての発言は、旧左翼の教条的・硬直的な批判のムーブメントを起こした。

  谷川雁は、民衆の理想のまぼろしこそ「村落協同生活」「東洋的共同体」の底辺にあり、「孔子の治国平天下」に対応する現実の歴史的存在であるとした。彼の農本型土着思想では、日本人の生活の根部で動いている意識性こそ乏しいが力強い暗さとかがやきを見つめ、そのエネルギーを組織するよりほかないと断じたのだった(「東洋の村の入り口で」「組織とエネルギー」『原点が存在する』現代思潮社)。

  だが、局所的な「決起」を促しはしたが持続することはなかった。巧みなレトリックで編まれた詩や評論は「革命の詩興」の域を出ることがなかったのである。

  彼の発想は、「独創的」な論説となってあらわれたりした。例えば多数の独立水系からなる日本の国土の特徴が、日本民族が統一を求める根拠になり、それが天皇制の心的背景にあると述べたりもしている。

 今からすれば辺境、最深底辺部の重視ゆえの逆立した発想からの「荒唐無稽」な論説なのだが、詩人の閃きによって導き出されたものであったのだろうか。

49.辺見庸 ~こだわり、生き方、性格、好悪~

 辺見庸という人はどういう人か? 彼は自ら率直に著作のなかで語っている。あくまでも自己認識なので、そのまま「実際の」人柄・性質とはいえないにしろ、また、彼が小説家・詩人であることも考慮して受け取らなければならないだろうが、別に自分に「虚飾」を施すこともないとするのが彼の信条であると思われる。そのまま受け取ってもよいのではないか。

 

性格、性向

「わたしは自分という人間を、根はとてつもなく明るいけれども、世界観というか未来観についてはひどいペシミストだと思います。とても暗い。なぜそうなったかというと、通信社の記者生活で戦場取材を多く経験した影響もあるのだろうけれど、たぶん、子どものころからいろいろな気配と予感のうちに生きてきたからです。わたしが育った石巻および三陸の沿岸都市は、つねに、気配、兆しというものを孕んでいた。わたしは太平洋沿いの海岸近くに住んでいて、いつも潮騒と海鳴りを聞きながら、なにかの気配を感じていた。耳の底にはいまでも、遠雷のような低い響きがあります。海のうねりが磯でくだけるときに空気とこすれ、空気をまきこんで発する音が海鳴りですが、それは台風や津波などがくる前兆とされていました。気配、兆しとは、これから、いつか正確にはわからないけれども、今後にやってくるもの、襲ってくることの見えないさきがけです。その気配、兆しというのは、いったいなにかということをずっと考えながら育ってきたのです」。

『瓦礫の中から言葉を わたしの〈死者〉へ』NHK出版、2012年、46ページ。 

 

「私の顕著な特徴はですね、「善」よりも「悪」に魅力を感じるという、類いまれといいますか、自分でもどうにもならない性癖があります.何が善で何が悪か、語れば尽きませんが、ゲーテの「ファウスト』でいえば、メフィストフェレスのほうが魅力があるという意味合いで、私は「悪」に対してとても興味と親近感を持っているということであります.それが私の自己紹介のようなものになるかもしれません」。

『いま語りえぬことのために―死刑と新しいファシズム毎日新聞社、2013年、42ページ。

  

「往々、品位を欠いてしまうのは、しかも、ほんのちょっぴりではなく著しくそれを欠くのは、残念だけれも、隠しても隠しきれない下卑た本性の然らしからしめるところなのだろう」。

『ゆで卵』角川書店、1995年、275ページ。 

 

「古い言葉だけど、ぼくはネアカなんですよ。手術のころは身体中にチューブをつけたまま下手な冗談を言ってました。ぼくの人生ってのは、どのみち半ば以上にジョークみたいなものだ、という不謹慎な考えが抜けないんです」。

『記憶と沈黙 辺見庸コレクション1』毎日新聞社、2007年、104ページ。

 

「子供のころから親や学校の先生に叱られ、私自身も恥じていたことで、いまもなおまったく矯正できていないどころか、ますます昂じていることに、性格のだらしなさというのがある。とりわけ、ものの整理というのが悲しくなるほどできない。ものが四方に散らかり収拾のつかなくなった風景は、身のまわりにいつもごちゃごちゃと展開しているだけでなく、じつのところ、私の内面そのものでもあります、と告白せざるをえない」。

『独航記』角川書店、1999年、415ページ。

 

こだわり

「詩壇、文壇には一切関係しない、というのが私の主義です。なんでもひとりでやる。文学なんて徒党を組んでやるものじゃない。本当に不思議でしょうがないですよ。なぜ詩というものが結社をつくるのか。それで、戦時中にはみんなして裏切って、戦争協力句というのが俳句にもあったでしょう」。

『明日なき今日  眩く視界のなかで』毎日新聞社、2012年、150-151ページ。

 

「子供のころの夢は、作家になることでも記者になることでもなくて、音楽家になることだった。作曲家というのでなく演奏者、それも、場末の闇で雨に濡れた犬のように惨めな目をして曲を奏でている、なんとか弾きといわれても、なんとかイストとは決していわれないような男がいい、と思っていた。ひねくれていたのだ」。

『反逆する風景』講談社、1995年、187ページ。

 

隠し芸

「俺も裸になった。別にそれが思想とかいうのではなくて、俺はできなかった。できないので、尻を振って、チンチンをブルンブルン回してみせた。プロペラみたいに。数少ない俺の芸の一つだ」。

『美と破局 辺見庸コレクション3』毎日新聞社、2009年、229ページ。

 

好きな言葉

「私の好きな日本語に「潜思」という言葉があります。心をしずめて深く考えることで、潜思黙想という表現もあります」。

『いまここに在ることの恥』毎日新聞社、2006年、81ページ。

 

好悪

「私はそれほど物事に熱心じゃないといいますか、飽きっぽいところがあるので、うまく重ならないですね。麻原は逆説的ですが、人好きに見えます。僕はどうもこのところ人嫌いですし。それに、世界最終戦争みたいな問題の立て方が僕は苦手です」。

『新・屈せざる者たち』朝日新聞社、1998年、63ページ。

 

「適度に堂々と人間は気違いじみた時間を持たないと、どうしてもシワ寄せや歪みが出てきそうな気がしますね。夜は別の人格になれたりする、ジキルとハイドじゃないですけれど」。

『夜と女と毛沢東吉本隆明辺見庸文藝春秋、1997年、82ページ。

 

 観覧車好き、趣味としてのフルート、ジョギング(手術前まで)、絵画・音楽・映画・写真などの鑑賞(素人の域を超える)。 

46.太宰治『満願』における視点 

 太宰治の作品が好まれるのは、彼の思考・嗜好と作品が強く関連しているとのイメージがあるからと思われる。また、自己の内面と外界との実時間でのありようを強く意識している。 

 それはさておき、辺見庸は、こんなふうに感慨を洩らしている。 

 私の好きな太宰治はなにを書いていたのか、調べてみたことがあります。いくつか創作していますが、「満願」というじつに短い掌編小説も書いていました。素晴らしく印象的な文章です。美しいカラー写真を切りぬいたような小説で、文芸評論家のだれもが評価しています。おそらく太宰もうまく書けたという自信があったのか、鼻高々のような筆致です。日本にはこういう小説が非常に多いのです。

 伊豆の三島だと思うのですが、太宰がひと夏をすごしていたところで彼が怪我をして病院にかよううちに医者と親しくなる。そこにきれいなご婦人が週に何回かくる。病気のご亭主の薬をとりにくるらしい。ご主人はどうやら、結核かなにかだったのでしょう。ときには医者が玄関までその女性を見送り、「奥様、もう少しのご辛抱ですよ」などと声をかけていた。医師は言外にある意味をこめて「ご辛抱ですよ」といっていたわけです。ある日その婦人が、もっていた白いパラソルをクルクルッと回して、小躍りするようにして帰っていった。「八月のおわり、私は美しいものを見た」。太宰はそう書きました。「けさ、おゆるしが出たのよ」と医者の奥さんがささやく。三年間、我慢していたのが、やっと満願です。もう辛抱しなくてもよくなった。「胸がいっぱいになった」と太宰は書く。そういう小説です。なるほど、うまいなあと私も感じ入る。

『いまここに在ることの恥』毎日新聞社、2006年、146-147ページ

 

  辺見庸は、この太宰の『満願』という作品の「後景」を注視する。

〇「満願」は1938(昭和13)年の9月に発表された。同年4月には、国家総動員法が公布されている。前年7月には盧溝橋事件が起き、同12月には南京大虐殺が起こっている。(『いま、抗暴のときに』毎日新聞社、2003年。のち講談社文庫、2005年、113ページ)。

〇「太宰治までほぼ全員が日本文学報国会会員だからね。建艦運動のために作品集をつくるなんてこともやった。これが当時は社会貢献だった」(『死と滅亡のパンセ』毎日新聞社、2012年、45ページ)。

太宰治は、小説『惜別』に描いたように、個の視点から魯迅への畏敬の念を抱きつづけた(『国家、人間あるいは狂気についてのノート―辺見庸コレクション4 』毎日新聞社、2013年。32ページ)。 

 そのうえで辺見は『満願』に異議を述べ、この作品と太宰をどう見るべきなのかを述べる。 

「満願」の日常を描いた太宰の心境は、したがって、字面ほど安穏とはしていなかったはずだ。いや、相当の葛藤と覚悟があったであろう―というのが、私の想像である。「満願」には他の太宰の作品同様に「国家」がない。もちろん、「文章報国」も「文芸報国」もない。いうまでもなくそのことは太宰の内面でつよく意識されていたはずだ。というより、太宰は国家主義の重圧のなかで努めて極小の「個」を主役とする日常の物語を仮構することにより、国家をみずからの内面から意図的に排除していたのではないか。そうすることが、国家への消極的な抵抗であり、太宰という人間個体と国家のある種のバランスでもあったのではなかろうか

 「満願」についてくだくだしくここまで書いたのは、いまの世の中でもこうした太宰式の生きる方法が人間的に有効かどうか考えたからである。時代の危機を十二分に感じながら、むしろだからこそ時代に背を向けて、故意に非国家的な日常に逃げこむ。そうしたい衝動が、正直、私にはある。草原や小川を背景に眩しいほど白いパラソルがくるくる回っている。その下に三年ぶりの性を解禁されて喜ぶ女がいる。すばらしい発見だ。国家総動員法などどこ吹く風と、極小のその発見を読者とともに楽しむ.国家的大事とはどこまでもなじまない非国民的「私」を見つめつづけ、怯儒な「私」をこそ描きつくす。それはあっていい。ありうる。しかし、消極的であれミニマムであれ、それはいったい人間個体の国家への「抵抗」と呼べるものなのかどうか。太宰を抵抗者のように買いかぶる評者も少なくないが、私はいつも首を傾げてしまう。太宰は好きだが、評価は疑問だ。

  自己餡晦することにより、国家との関係を暖昧にし、実質的に追従しているのに抵抗しているようにも見せかける仕掛けが太宰の後の戦後の文学にもある。果敢に見えて卑怯。この国の湿土に育つ精神は太宰にかぎらず、どこか卑小でもある。いまも昔もなぜ抵抗は持続できないのか。日常はなぜ危機を食いつくすのか。白いパラソルをもつ「満願」の女の背後には、よく眼を凝らせば、草原や小川ばかりまがりではなく、はるか遠くに禍事らしい黒い影も見えてくるはずだ。抵抗者に対する特高警察の拷問、日本兵に強姦される中国の女性たち、日本軍の三光(皆殺しにし、掠奪しつくし、焼きつくす)政策による酸鼻の光景である。‐水量豊かなあの小川にはじつはたくさんの死体が浮いていたのだ。そう見るべきである。

『いま、抗暴のときに』毎日新聞社、2003年、のち講談社文庫、2005年、112-114ページ。

 

 「時代の危機を十二分に感じながら、むしろだからこそ時代に背を向けて、故意に非国家的な日常に逃げこむ」。

「それはいったい人間個体の国家への<抵抗>と呼べるものなのかどうか」。

 辺見の答えは「呼べるものではない」である。まったく同感である。

 だが、日常はなぜ危機を食いつくすのか? さらには日常は危機を食いつくせるのか?

 その問いが次に待っている。

  そこで私は思う。その解は、どこまで突き詰めて考えられるか、そして言行一致ができるかにかかっているのではないか。

 

「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」(宮沢賢治、『農民芸術概論綱要』)、「"Each for All, All for Each」「利他業」の理念。 

 一方、生物である人間の「利己的遺伝子」による種・同族保存、「情けは人のためならず」という人間の度し難い本性。

 これらが日常の実相の底辺に潜在する。

 非国家的な日常に逃げこむことによって日常が危機を食いつくすかに見えたとしても、また、日常という利己的遺伝子と観念の確執の場のなかでひと時の安らぎを得ることがあったとしても、結局は逃げきれないというのが現実である。「日常はなぜ危機を食いつくすのか」との問い(探求)の答えは、各人が一生をかけて導き出してくる性質のものであり、日常のひとときの安寧が危機を食い尽せることはない

  なお、この婦人(女性)の喜びとは何か、辺見は「三年ぶりの性を解禁されて喜ぶ女」と記しているが、その前に、この女性の三年間の我慢、辛抱とは何か?を見なければならない。それは「性の解禁」に表象される喜びに限定されたものではないのではないか。

  何よりも結核を患った夫の生命と身体への慮りからの解放、夫(小学校教員)の病気の快癒による元の暮らし(の予感)の喜びなどが、「もっていた白いパラソルをクルクルッと回して、小躍りするようにして帰って行かせた」のではないか。性の解禁の喜びは、それをめぐる諸相との往還において存在する生の動態として捉えるべきであると思う。

 そのことは太宰がこの掌編で、医者の奥さんに「けさ、おゆるしが出たのよ」とささやかせるということ自体がやや疑問であるし、その点を無批判に受け取って批評する辺見も洞察不足と言わざるを得ない。

 

42.阿川弘之、三浦朱門

 権力亡者、排外主義者、民族主義者、拝金主義者、競争至上(弱肉強食)主義者、国粋主義者

 これらは米国の大統領選挙で勝ったトランプのことを言っているのではない。安倍晋三のことでもない。

 選民思想、加害者意識欠落、天皇崇拝、夜郎自大レイシストといった特徴をもつ。そんな人間がやたら多くなっているからこそ、思慮を欠き厚顔無恥な人物が、雨後の筍ならぬ毒草のごときものとして次々と出てくるのである。

 言論界、政界、マスメディア、ネットの世界においてしかり。

 今回はその中のうち、二人の人物をとりあげる。

 阿川弘之。彼は辺見の『もの食う人びと』が「紀行文学大賞」を受賞した記念パーティで、辺見庸にわざわざ近づいてきて「死にたいものには死んでもらえばいいんですよ」と言い放った。「死なないでくれなんていうのは恥ずかしいことだ」とも言った。元慰安婦たちに「死ぬのはもうやめてください」と辺見が言ったと書いた部分について難癖をつけてきたのだ。

 この、ものは「者」すなわち元「慰安婦」の老婦人たちのことである。自殺したがっているひとびとに、万万一、自殺の衝迫が過剰な自己表現か″狂言″のようなものであったにしても、死なないでくれと言ったのが、なぜ「恥ずかしい」のだろうか。なににとって、どのように「恥ずかしい」のだろうか。老作家はそれを説明しなかった。説明のひつようもないとかんじていたのだろう。苦しみ悩乱する老婦人たちについて「死にたいものには死んでもらえばいいんですよ……」と言いはなったかれは、それから数年後に、めでたく文化勲章を受章する。そんなものだ。元慰安婦たちに死にたきや死ねよ、と言うようなやからに勲章と終身年金をあたえる。ニヅポンとはそんなクニである。

『1★9★3★7(イクミナ) 』金曜日、2015年。のち『増補版1★9★3★7(イクミナ) 』河出書房新社、2016年、261ページ。

「死にたいものには死んでもらえばいい」。そこには元慰安婦たちがどんな思いで日本軍の兵隊たちに接していたかへの思慮がない。戦争という殺戮・強制行為という加害意識が全く欠落している。

 辺見は付け加える。「武田泰淳のことばでいえば<鉛のように無神経な状態>は、いまもいたるところにある」と。

 次に、三浦朱門。彼は戦時中、日本による「台湾、朝鮮半島の出身者の強制連行はなかった」と言う。とんでもない発言だ。

 朝鮮人強制連行はなかった、いわゆる「従軍慰安婦」も強制ではなかった―という根拠なき抗弁はなにもいまにはじまったことではないけれども、今回の「論証」はまさに驚天動地である。終身年金が支給される「文化功労者」でもある三浦氏はいう。「台湾、朝鮮半島の出身者は当時は日本人だった。悪法といえども法である。日本国民として彼らも徴用令に背けなかった」。

『いま、抗暴のときに』毎日新聞社、2003年。のち講談社文庫、2005年、143ページ。 

 戦争法の法理が問題でなく、侵略・抑圧・強制こそが問題であるという自明のことすら見て見ぬふり。これでは「論証」に値しないのはいうまでもない。

 そしてこの種の人間や組織が、今や魑魅魍魎のごとく跋扈するようになった。

 中西輝政、渡辺昇一、加瀬英明西部邁竹中平蔵桜井よしこ山崎正和福田和也佐伯啓思小林よしのり橋下徹佐藤優・・・・。財界では葛西敬之

 大手新聞の産経、読売。TV局のフジ(関テㇾ)、日テレ(読売TV)、雑誌では正論、Will、文春、新潮、・・・・

 意識産業としての雄であり「憲法番外地」の電通宗教法人生長の家(学ぶ会)、統一教会。任意団体の日本会議神道政治連盟公益社団法人隊友会

(そのほかに右派幇間、隠れ右派人等がいることも付記しておきたい)。

 これらは、下記のいずれかに(複数)に該当し、結局は大義名分と期待(幻想)効用を喧伝し「産軍振興」「戦時」へと大衆を巻き込んでいく。

権力亡者、排外主義者、民族主義者、拝金主義者、競争至上(弱肉強食)主義者、国粋主義者

選民思想、加害者意識欠落、天皇崇拝、夜郎自大レイシズム

 彼らの対極にいたのが「鹿野武一」「石原吉郎」「菅季治」「尾形亀之助」であった。そのことをこの「辺見庸―内宇宙の旅―」では銘記したい。