辺見庸 研究 ~内宇宙への旅~

辺見庸の発言は、ときに「荒れ球」や「魔球」もあるが、「剛速球」が身上である。その根源にある思考とは何か。

63.ファシズムの快と自省

 辺見庸は述べる。

 何度もくりかえしますが、ファシズムというのは、けっしてでたらめなやつだけがやっていたわけではないのです。ファシズムにはファシズムなりのある種のロマンというものがあった

 そのことを忘れないようにしたいとぼくはおもうのです。「ファシズムにはいかなる精髄もなく、単独の本質さえない」、それは「ファジーな全体主義だった」とイタリアの作家ウンベルト・エーコーは指摘したことがあります。つけくわえれば、ファシズムとは時に排外的行為を、痛快で、爽快であると錯覚する社会心理、集団心理でもあろうかとぼくはおもいます。日本でもその根は絶えていない。

 辺見庸 『しのびよる破局 生体の悲鳴が聞こえるか』大月書店、2009年。のち 角川文庫、2010年、73-74ページ。

 ロマンチシズムは、本来、個として理想主義ないし観念感情や感受性・主観に重きをおく。対極に理性偏重、合理主義や写実主義自然主義など広義のリアリズムがある。

 自己がリアリズムでの実態を知悉すると、矛盾に苦悩せざるを得なくなり、ロマンチシズムに向かう。だが結局、満身創痍で立ち行かなくなる。ロマンチシズムはリアリズムの前に崩れ落ちる。

 ディストピアに陥り、滅亡の幻影にさいなまれデカダンスに身をゆだねたりする。自らを無機物へと追いやるケースもある。

  ところがそれでも、滅亡の反照に目を背けられずロマンへ希求が突き上げてくる。またもやニヒリズムに苦悩しながらも両者の間を往還し葛藤・確執を繰り返すのである。

  ロマンチシズムとリアリズムの往還、確執(葛藤)の場は、人間社会のすべてにわたる。

国家→     革命(アナキズム共産主義)、サンジカリズム、社会民主主義 

        アソシエーショニズム

        ファシズム国家社会主義、独裁)、

        *ポスト・トゥルーシズムが駆使される。

  

 経済→    自由経済 市場経済 国家独占資本主義

        福祉資本主義  社会主義経済 共産主義経済

        エコロジー経済

 社会、思想、哲学、医療、それ以外に多岐にわたる。

   文学、音楽、家庭、性、愛、恋、友情、老い、教育、消費 f:id:eger:20170210142727j:plain

   世界に蔓延しつつある排外的自国第一主義は、政治経済面でのロマン主義の一種ではあるが、リアリズムの課題・問題との取り組みを放棄したものであり、理想とは似て非なるものである。内なる利己的遺伝子の突き上げを情念の高揚として認識し、内語での自省・対峙を失うかまたは回避している。

 そのことに気づいた者が、状況の闇をフォーカスする力を研ぎ澄ますことができる。

                                 (エゴン・シーレ死と乙女」)

 

 

 

61.「不条理な」苦痛

 今日の世界情勢として政治の右傾化、排外主義の台頭がある。それは「トランプ現象」に顕著に表れているのだが、日本にも当てはまることである。

 逸見庸は『いま、抗暴のときに』で、次のような主旨のことを述べている。十数年も前のことだ。

 ドブレは前掲書で憂いがちにいっていた。「技術の進歩は不可逆だが、政治は可逆的なものだ。つまり、政治には進歩はないということだ」。人間的なるものは技術的進歩に追いついていないし永遠に追いつくことはない。そこで現出したのがすなわち高度技術社会における不可視の精神遅滞ないし獣性である。

『いま、抗暴のときに』毎日新聞社、2003年。のち講談社文庫、2005年、84-85ページ。(なお、文中の前掲書とは、ドブレ『革命の中の革命』(晶文社))

  歴史が技術と同様に進歩するのであれば、原始・古代・封建・近代・現代の推移として、人間(人類)の情意における俗や劣は精錬された「精」(叡智)を内包して現出しているはずであるし、それが未来において大きく広がると予感されるに至っているはずである。

 そうならずに人間は「精神遅滞ないし獣性」を引きずっているのだから、「人間の不完全性を歴史はいつまでも刻み続けている」とわかったように佇み、利己に閉じこもっていると、次に来るのは核兵器の使用による滅亡である。 

 「ぼくは無機物論者ですから、そういうもの(生れ変わり:筆者註)はなくても平気なんです。だけど、生きている間はイメージのなかで平和共存とか、南無阿弥陀仏とかありますけれども、平和共存と何回も繰り返すよりも、南無阿弥陀仏で極楽に往生するということがより広く、より長続きする一つの考え方だと思うんです。平和共存というものは、非常にあやふやなものでしょう。しかし絶対他力というものはね、全部救いがないというときに浮かび上がってくるイメージですから、そのほうに賭けるわけです。生きている間はですよ。だけど、本心は無機物に帰するに過ぎない。地球上のすべての生物はやがて腐って、消えゆくものですね。腐って消えてゆかなかったら、存在というものはできないでしょう。(中略)腐って消えていって、滅びてしまうということがあってですね、うまく調和がとれているのであって、それはぼくは自然科学的に考えているわけです。」

 武田泰淳『館田泰淳全集 別巻二』筑摩書房、1979年、198ページ。

 しかし、人類がこの地球で無機物になる前に平和共存を、他力本願と言われようが、それが非常にあやふやなものであろうが、矛盾に対峙しながら唱え続ける。または辺見の言うように、

 いわゆる「反社会的」思想の助けも借りなければならないし、まずもって「反社会的」という世にも恥ずかしい言葉を捨てることからはじめなければならない(辺見庸『同上書』85ページ)。

 かつてのローマ帝国がそうであったように、米国は自国の仕業に起因したことどもを顧みず「逆切れ」し、気に入らないものを排除・抑圧する。抵抗や反乱が必至なことは自明である。

 資本に精(叡知)など皆無、権力・権威もしかり。言葉だけによる理念やロマンもまたしかり。押し付けられ誘起された自己犠牲ではなく、個として主体的な自己否定(批判的主体形成)を通じて「脱・精神遅滞ないし獣性」を具現する。  

 技術の進歩に比べた場合の政治の可逆性ないし退行。人間の情意が俗や劣から脱することができずに引き戻されるが、進歩の規準はある。

 人類(歴史)の進歩は、人々の利便性と快適性をひたすら追求する技術における進歩とまったく異質なのである。

 「不条理な」苦痛―つまり各人が自分の責任を問われる必要のないことから負わされる苦痛―を減らさなければならない、という価値理念に歴史の進歩の規準が求められる。

(出典:市井三郎(1971)『歴史の進歩とはなにか』岩波書店、208ページ)。

 障がい者、被差別者、被災者、難民、その他諸々の不条理に見舞われている人たちの苦痛をいかに減らすことができるか。

歴史の進歩を刻む。その取り組みのなかで、各人が問われる責任を、各人の置かれた情況や暮らしにおいて自覚し行動に移し主体形成へと進んでゆく。

 「他業自得」を基底に「自業自得化」してなにか新しいもの(新しい自分をふくむ)をつくりだす。その営為のなかに自由がある。 小山俊一はサルトルの所説を、そのように理解したのであったが、一言つけ加える。「説教ならまだしもだ」と。

57.講演会(1月30日)のこと

 辺見庸の右目が見えなくなった、体を激痛が走る、「エベレスト」にも最近は登っていない、という。右目は手術しなければならず入院は7日ほど。左目も問題ありとのことだ。

 今年の1月7日からのブログ「私事片々」は2017年1月23日でいったん途切れ、その後、再開されたものの1月25日にまた消えた(削除された)。

 それによると、労組の研修会には行き、片目で話したとのこと。だが、彼のブログの文章量は極端に少なくなり、以前のような「粘着性」は薄らいでいる。

 身近な家族が辺見から去って久しい。

辺見庸)「私は傷つけた人々に私だけの重い責任を負うている。それは事実だ。そこから逃げようとはしていないし、ごまかそうとも思わない。家の問題は大したことがなく、世界の問題は重いから二者を分離し、前者を語らないというわけではないのだ」。(『自分自身への審問』毎日新聞社、2006年。173ページ)。

   不自由な体では歩くこともままならない。ときにマックでダブルチーズバーガービッグマックを食べ、又は定食屋に行き、喫茶店でしばしくつろぐのが精いっぱいであったのだ。

 昨年12月5日、八重洲ブックセンターでの講演が無事終わった後、辺見の体調は悪化していった。

 死刑制度に関する朝日新聞からの取材に応じたものの、記事の内容は辺見が答えたものと程遠く貧寒たるものだった。劣悪な見識の持ち主の米国大統領就任、国内では共謀罪の国会可決への動き。それ以外にも彼自身の諸事情もあるだろう。

 それでも年明けの1月30日の新宿での講演会には予定通り行くと辺見はブログで書いている。

『1★9★3★7』を書きあげ、彼としては思索・著作活動の「総括」をしたとの思いがある一方、情況への憤怒を表現しないわけにはいかないのだろう。それは体調や年齢を超える陰熱によるものかもしれない。 

 辺見庸は10年ほど前には、人前で語ることについて次のような感慨を持っていた。彼らしい気概と照れが交錯している。

 私ひとりのこととしては、羞じどころかそこはかとない頽廃の臭いさえ嗅ぐこともあった。大勢の人を前に一段高いところからひとしきりなにごとか偉そうに話す自分に、だ。旧年はそれが堪えがたいほど多くつづき、私は聴衆に向かって声張りあげては内心「なんてこった」と声なくおのれを呪い、回を重ねるごとに厚顔の度を増す一方で、少しは静かにまつとうに生きたいという私なりの気組みがいやな音をたてて崩れていくのを感じていた。

 聴衆が私の話に昂揚しはじめれば、私は彼らの高ぶる心の波をさらに高ぶらせようと案をめぐらし、それが奏功したりすると怪しげな快感のようなものすら覚え、内心かえってぞっとしたこともある。私は自分が年来もっとも軽蔑していた口舌の徒になりさがっていた。

 それでも人前で話すことをやめなかったのは、いいわけめくけれども、古くから胸底にこびりついていた二つの沈黙の言葉が異常に発酵して体内に充満し私をいらだたせたからでもある。

『記憶と沈黙 辺見庸コレクション1 』毎日新聞社、2007年、182-183ページ。

  だが、2004年、新潟での講演中に脳出血で倒れて以来、治療を受けながら懸命のリハビリに努め、体力・気力を回復させてきたものの、後遺症は容易に寛解しない。それどころか徐々に彼の心身は弱っていった。ブログからはそう読める。

  今月1月30日に新宿紀伊国屋ホールで開催される講演会については少し様子が異なる。

 紀伊国屋ホールでの講演会、彼の姿を一目見て、そして話を聞きたい人は少なくないだろう。しかし、『1★9★3★7』を「なめるように」読めばいいのだ。『死と滅亡のパンセ』『明日なき今日』『国家、人間あるいは狂気についてのノート』などを再読すればいい。

 昨年春に他界した彼の母親(「昨春の母の他界(2017/01/13のブログ「私事片々」)も、辺見庸が早く会いに来ることを決して望んでいないはずである。

 

42.阿川弘之、三浦朱門

 権力亡者、排外主義者、民族主義者、拝金主義者、競争至上(弱肉強食)主義者、国粋主義者

 これらは米国の大統領選挙で勝ったトランプのことを言っているのではない。安倍晋三のことでもない。

 選民思想、加害者意識欠落、天皇崇拝、夜郎自大レイシストといった特徴をもつ。そんな人間がやたら多くなっているからこそ、思慮を欠き厚顔無恥な人物が、雨後の筍ならぬ毒草のごときものとして次々と出てくるのである。

 言論界、政界、マスメディア、ネットの世界においてしかり。

 今回はその中のうち、二人の人物をとりあげる。

 阿川弘之。彼は辺見の『もの食う人びと』が「紀行文学大賞」を受賞した記念パーティで、辺見庸にわざわざ近づいてきて「死にたいものには死んでもらえばいいんですよ」と言い放った。「死なないでくれなんていうのは恥ずかしいことだ」とも言った。元慰安婦たちに「死ぬのはもうやめてください」と辺見が言ったと書いた部分について難癖をつけてきたのだ。

 この、ものは「者」すなわち元「慰安婦」の老婦人たちのことである。自殺したがっているひとびとに、万万一、自殺の衝迫が過剰な自己表現か″狂言″のようなものであったにしても、死なないでくれと言ったのが、なぜ「恥ずかしい」のだろうか。なににとって、どのように「恥ずかしい」のだろうか。老作家はそれを説明しなかった。説明のひつようもないとかんじていたのだろう。苦しみ悩乱する老婦人たちについて「死にたいものには死んでもらえばいいんですよ……」と言いはなったかれは、それから数年後に、めでたく文化勲章を受章する。そんなものだ。元慰安婦たちに死にたきや死ねよ、と言うようなやからに勲章と終身年金をあたえる。ニヅポンとはそんなクニである。

『1★9★3★7(イクミナ) 』金曜日、2015年。のち『増補版1★9★3★7(イクミナ) 』河出書房新社、2016年、261ページ。

「死にたいものには死んでもらえばいい」。そこには元慰安婦たちがどんな思いで日本軍の兵隊たちに接していたかへの思慮がない。戦争という殺戮・強制行為という加害意識が全く欠落している。

 辺見は付け加える。「武田泰淳のことばでいえば<鉛のように無神経な状態>は、いまもいたるところにある」と。

 次に、三浦朱門。彼は戦時中、日本による「台湾、朝鮮半島の出身者の強制連行はなかった」と言う。とんでもない発言だ。

 朝鮮人強制連行はなかった、いわゆる「従軍慰安婦」も強制ではなかった―という根拠なき抗弁はなにもいまにはじまったことではないけれども、今回の「論証」はまさに驚天動地である。終身年金が支給される「文化功労者」でもある三浦氏はいう。「台湾、朝鮮半島の出身者は当時は日本人だった。悪法といえども法である。日本国民として彼らも徴用令に背けなかった」。

『いま、抗暴のときに』毎日新聞社、2003年。のち講談社文庫、2005年、143ページ。 

 戦争法の法理が問題でなく、侵略・抑圧・強制こそが問題であるという自明のことすら見て見ぬふり。これでは「論証」に値しないのはいうまでもない。

 そしてこの種の人間や組織が、今や魑魅魍魎のごとく跋扈するようになった。

 中西輝政、渡辺昇一、加瀬英明西部邁竹中平蔵桜井よしこ山崎正和福田和也佐伯啓思小林よしのり橋下徹佐藤優・・・・。財界では葛西敬之

 大手新聞の産経、読売。TV局のフジ(関テㇾ)、日テレ(読売TV)、雑誌では正論、Will、文春、新潮、・・・・

 意識産業としての雄であり「憲法番外地」の電通宗教法人生長の家(学ぶ会)、統一教会。任意団体の日本会議神道政治連盟公益社団法人隊友会

(そのほかに右派幇間、隠れ右派人等がいることも付記しておきたい)。

 これらは、下記のいずれかに(複数)に該当し、結局は大義名分と期待(幻想)効用を喧伝し「産軍振興」「戦時」へと大衆を巻き込んでいく。

権力亡者、排外主義者、民族主義者、拝金主義者、競争至上(弱肉強食)主義者、国粋主義者

選民思想、加害者意識欠落、天皇崇拝、夜郎自大レイシズム

 彼らの対極にいたのが「鹿野武一」「石原吉郎」「菅季治」「尾形亀之助」であった。そのことをこの「辺見庸―内宇宙の旅―」では銘記したい。