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辺見庸 研究 ~内宇宙への旅~

辺見庸の発言は、ときに「荒れ球」や「魔球」もあるが、「剛速球」が身上である。その根源にある思考とは何か。

3.精神の地下茎(その2)

 辺見庸の精神の地下茎は、高度な精神分析・心理学の有機的分析アプローチが不可欠だ。だが、それをもってしても「解明」できない魅力がある。

 

 たしかに深層心理学や行動心理学が人の心の奥深いところでの実態を明らかにする。脳科学は脳の働きにメスを入れる。余計な要因は捨象し、一定のシナリオにそって解剖学,生理学,病理学の手法で人の心理の世界に科学的にアプローチするのである。

 

 それらに先立って精神分析が、器質的な要因による「神経症や精神病」の病理を超えた視点による研究で新しい世界を拓いたという功績は大きい。

 なかでも画期的だったのはフロイトによる潜在意識、無意識への探求(精神分析)であった。性慾動の抑圧による神経症状の治療のために夢分析を行った。催眠法や薬物としてコカインを使って神経症等の治療に役立てていた。

 

 経済において、下部構造が上部構造を規定するとのマルクス経済に類比されるような精神分析は、その後、性の無意識世界に及ぼす作用の解明として20世紀に入って多くの研究者が取り組んだ。さらには自我・エス・超自我構造の解明への途を拓いたのである。

 

 ところが精神の地下茎にはこのフロイトが切り拓いた分析分野が含まれるものの、性慾動の抑圧や倒錯だけが突出しているわけではない。軽重こそあれ幼児・少年期そして成人期において、多岐にわたるフラストレーションやPIDSといった領域にも広がっている。

 

 自己の倫理的規範との齟齬や人間関係における諸感情(怒り、嫉妬、恨み等)の屈折、さらには希望や自己実現欲求等での確執も精神の地下茎の生育に関わっている。精神の地下茎は悍ましく、おどろおどろしい精神の土壌に生えているのであって、自身でさえ思わず目を背ける面をもっているのである。気障(きざ)に聞こえるかもしれないが、それでこそ「精神の地下茎とその土壌」が、人の「内宇宙」への基地になり得るのである。

 

 辺見は述べる。

 フェティシズムとしての贄沢は、社会の病理であると同時に、人間精神の暗い地下茎(人はみな、不可視の地下茎を生やしていると私は思う)の然らしめるところでもある。もっともらしい地上の外面部分に〈その偽善に対し、精神の地下茎は、じつのところ日夜愼志の一炎を燃やしているのである。つまり、人というものの半身は堂々と異形でありたいのだ。地下の湿った精神の茎や根は、時として蛸足のごとくモゾモゾとうごめき、人としてのパフォーマンスに尋常ならざる趣向を凝らしたがるのだと思えてしかたない。

『反逆する風景』講談社、1995年、208ページ。

 

 そのような土壌と地下茎こそ、精神の原始生命体の本質であり生身の心身の棲み処である。ところが、それを支える地下水脈がここ百年で枯渇の危機に陥っている。あらゆるものが商品化される資本主義において消費情報が人間と人間関係を虚ろで実体のないものにしてしまった。

 

 人の心の陰影、または逆に豊饒といった心的現象への洞察。それを欠落させた人間関係や言動の薄っぺらさは精神神経病理学の対象ではないとして捨象するわけにはいかないのである。

 

 「旅路のどこにあっても、本とは、私のなかの底暗く湿った精神の地下茎を刺激し、土中で増殖させるなにかなのであり、それ以上でも以下でもない。地下茎はいつもひたすら本を欲している。風景の解析の役になどたたなくていいのだ。窓外に銃声を聞きながら、夜半にホテルでひとり『狂人日記」を繰る。

『同上書』181ページ。