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辺見庸 研究 ~内宇宙への旅~

辺見庸の発言は、ときに「荒れ球」や「魔球」もあるが、「剛速球」が身上である。その根源にある思考とは何か。

5.辺見庸ー作品の後景ー

 表現されたものを知るためには、透徹した意識と眼力によって『作品』を感じ理解する。鑑賞が観賞にとどまるかぎり、作品を味到できない。ましてや鑑賞する者による意味づけによって意識と眼が侵されると、もはや観照は不可能になる。

 

 「作品」が内包する「記憶」は、創作するに当たって作者に注入されたものであり、生い立ちや経歴を牽強付会に意味づけすることは、作品の観照を妨げになること言うまでもない。作品」が内包する「記憶」への洞察こそ作品の「観照」に資する(ただし、作者自身が語る出自ついては読者の想像力が必要であるが)。

 

 評論家・作家の辺見庸の精神は、生まれ故郷である「石巻」の港町での風景と父親との心の確執によってその原型が形成された。その原型の内奥のマグマを辺見の「根生い」と「自意識」の鋭さと強靭さでかぎりなく熱いものにした。

 

 辺見庸はクロノロジーましてや年譜を好まない。よって彼の著作から抽出した事項を箇条書きにするな単なる略歴ではなく、やや引用が多くなるが、あえて原文を引用する形式で彼の作品の後景を描くことにした。このような形式にしたことと、抽出・引用が部分的で意を尽くせないことをお断りしておきたい。

 

<出生および父親

 辺見庸は、1944年、宮城県石巻市に生まれた。

 父親は、東京外語の支那語科で学び、同盟通信に就職し、同盟通信記者として応召して中国で将校として戦かった。復員してからは石巻の夕刊紙の記者となり、新聞社勤務の最後は福島民友新聞の役員として退職している。

 

 出征してからはずっと戦後もふくめて、すべてがダメになっていった・・・というような意味のことを、死の数日前に、父はわたしに話した。楽しかったのは、学生時代、ボート部員として隅田川でボートを漕いでいたころだけ。復員後、四十年以上つとめた地方紙記者時代のことなどひとことも触れなかった。戦中だけでなく、戦後も、じつはなにも楽しくはなかった。そのようなことをきれぎれに、うめくようにつげた。訊きなおす。戦後も楽しくはなかった?ミイラのようにやせたかれは小さくうなずいた。やっぱりそうか……。敗戦後すでに半世紀以上たっていたので、わたしはやや意外におもい、どうじに、ばくぜんと納得もした。クニに戦後はあっても、かれのからだと記憶にはかんぜんな戦後などなかったのだろう。「スヌデ、スヌデ……」。父はかすれ声でうわごとを言った。「スヌデ……」。さいしょはなんのことかわからなかった。母が、たのむからそんなことを言わないで、と父に涙声で懇願している。

 「スヌデ……」。むかしの石巻弁で「死にたい」であった。かれはもうすぐ逝くのをわかっていて「スヌデ……」をくりかえした。病気になってからではなく、復員してきてからずっと、間欠的に「スヌデ……」をつぶやきつづけていたのかもしれない。病院からの帰途、あるせりふがふと口にわいた。「ああ、すべてが敵の悪、戦争の悪のせいだと言い切れるのだったら、どんなにいいことだろう」。夕闇のなかで、深呼吸しつつ、そのせりふをたぐった。ことばの根っこに、みてはならない、知ってはならない光景がひろがっていることを、その時点でわたしは知っていた。

(『増補版1★9★3★7(イクミナ) 』河出書房新社、2016年、156ページ)。

 

 彼の父も母も石巻の出で、墓は今も石巻にある。しかも父方のルーツは岩手県である。家族は、父、母、妹そして辺見本人であった。 

 祖父は石巻の市会議員で市会議長として関東大震災では石巻から救援隊を引き連れて東京へ行ったこともある。囲碁の好きな人だった。

 

 父はよくパチンコをした。復員後の人生の、信じられないほど長い時間を、父はパチンコ屋ですごした。いくら打ってもタマのでない台からタマがでるかもしれない台へと移動しようとはしなかった.かれは、かなりの借金をした。とうじのことばでいう「サラ金」からも金を借りた。そうして、タマのでない台でパチンコをしつづけた。かれには.ハチンコでもうける気などまったくなかったようだ。ごくまれにタマがたくさんでたりすると、父はそれで借金額にまるでみあわない動物のぬいぐるみなどをもらい、母をよろこばせた。わたしはたまに横でかれをみていた。男は、パチンコ台のガラスのむこうに、せわしないタマのうごきではなく、なにかをぼうっとみていて、ガラスになにかが映るのであろうか、ときどき、おどろいたように息をのんだ。血管に鉛でもながれているように横顔がかたまり、いつも無言だった。わたしは声をかけることができなかった。かれはヒロポンはあまりやらなかったようだ。だからヒロポンであばれることはなかった。しかし、その男は、母をよく殴った。理由はよくわからなかった。わたしもよく殴られた。顔をよく殴られた。

『1★9★3★7(イクミナ) 』金曜日、2015年。のち『増補版1★9★3★7(イクミナ) 』河出書房新社、2016年、151-152ページ)。

 

<幼年期>

 故郷というのは、平穏にそこにあるとき、柔らかな陽射しがあり、凪いだ海や美しい川があるときには、記憶としてはあまりたいした存在ではありません。石巻の記憶もそうで日和山という山があって、桜が咲いて、ツツジが咲いて、そこから太平洋と北上川が望める。夏の川開き、豪華な花火大会、盆踊り、大漁旗をはためかせた漁船、パルプ工場の煙、冬の鈍色の空、悲鳴のような風の音、屈託のない笑い声とくぐもった声、篤実な目の色と他者をいぶかり排除する暗いまなざし……そういう、ときとして愛憎相半ばするものだったりする。若いときは、なんだ、あんなところと嫌がって、記憶から故郷を排除しようとしたこともありました。

 『瓦礫の中から言葉を わたしの〈死者〉へ』NHK出版、2012年、17-18ページ。

 

 

 はて、どうしたものだろう襟元や脇の下をなにかがスースーととおりすぎてゆくのだ。口から入り、頭蓋をへめぐって眼窩へと吹き抜けていく、芯のない音か空気のようなもの。真鍮の肉挽き機。に張りついた犬の肉のかけら。チューブに入った緑色のポマード。加虐性肛門性欲。同症候群。そして、腐った羽目板。はめにはった板。ハメマラ。鶏頭。赤チン。ジョロヤの板塀の湿気と徴。板塀の隙間からもれてくる、安いおしろいにまぶされた汗と垢のにおい。イチジク浣腸。ヒバリノ海岸にかならず落ちていた、イチジク形の、白濁したその容器。オキシフル.三シ矢サイダー。よるずやのとんず。ベーゴマかっぱらってこい、とんず。東次。でぎらんぽ。アホ。テーノー。まぬげ。メヌゲ。マカオのオカマ。こんなんでいいのだろうか。こんなんしか浮かばない。うがばね。とんず、けすごむ、かっぱらってこい。床屋の女。タールくさい髪。夜の砂浜.黒い波.穴を掘って女埋めた。うめだ。いや、埋めていない。うめでね。(中略)

 とんず、三角定規かっぱらってこい。テーノー、セーハグ.こんなんしか浮かばなひ。どうするのだ。死刑は、社会と個人間にいきわたっている内心の不自由の排気弁であるとともに、不安と憎悪と罪責の吸気弁である。・・・と言ったところでどうなるというのだ。へっ、えらそうに。とんず、どこにいる?まだ生きているのか?明日、ミルキーかっぱらってこい!すずぎけんずはもう死んだど。ずさつ、自殺だ。

『いま語りえぬことのために―死刑と新しいファシズム毎日新聞社、2013年、142-143ページ。

 

 

 かつてあった競馬場も厩舎も麦畑も、売春宿といわれていた木造三階建ての焦げ茶の家も、水彩画に水をかけたかのように消えていた。昔、私が住んでいたマッチ箱みたいに小さい平屋の市営住宅もなくなっていて、無表情な鉄筋の集合住宅がど-んと同じ場所にあった。

『美と破局 辺見庸コレクション3』毎日新聞社、2009年、150ページ。

 

<少年時代、中学・高校時代>

 はじめて恋心をむけた綾子さんは生きているだろうか。わたしの子分役をだまって耐えてくれたかつひこちゃんは助かったのか。日和山から写生した海の絵をほめてくれた仙石先生はどうされているか。みんなしてスナックにあつまって、あんだ老けたね、おらもうとすより(年寄り)だ、と笑いあいたかったのに。スナックはまっさきに津波にのまれたろう。

『死と滅亡のパンセ』毎日新聞社、2012年151ページ。  

 

 

 ハゼ釣りをするわたしの背後に、たしか俵屋という街でいちばんの洋食レストランがあった。俵屋には立派な油絵がかかっていて、貧乏人は行けなかった。盛岡で歯科医をしていた伯母がやってくると、俵屋につれていかれた。生まれてはじめてカツサンドというものを緊張して食べた。気が変になるほどうまかった。じぶんはとんでもなくおくれた、犬のようにものも作法も知らない人間なのだと思った」。

『瓦礫の中から言葉を わたしの〈死者〉へ』NHK出版、2012年、191ページ。 

 

 

 いまでも、何十年経っても、忘れられないことは、そのT先生がクラス討論だったかクラス会だったかで発した一言なんですね。先生の一言に躰が貫かれたわけです。ぼくの母校は、東北の石巻の片田舎の学校でしたし、そのころは積極的に手を挙げて話すなんてことはとくに奨励されている時代でもなかったので、生徒たちはなにも発言せず、もう半分寝たような状態で、口を半開きにしてボーっとしていると、T先生が突然絶叫するわけでどう叫んだかというと、ガラス窓も割れるような声量で「おもえ-っ!」。「思え!」というのですね。その叫び声のすごさにもう腰を抜かした生徒もいたのではないかと思います。「おもえ-っ!」と、たったこれだけの言葉でした」

『抵抗論―国家からの自由へ』毎日新聞社、2004年、222-223ページ。

 

 悪童時代はひばりの卵を見つける遊びに夢中になり、中学時代には「のりこ」という女の子にあこがれた。高校時代のあだ名は「フランス人」。陸上部に属し駅伝で活躍した。

 宮城県石巻高校を卒業するまで石巻で暮らしていた。 

 

 三十年ほど前、宮城県石巻高校という男子校を私はやっとのことで卒業した。校庭から太平洋を見はるかす、まことに素晴らしい勉学環境、熱情溢れる教師陣に囲まれながら、あのころはたしか、志賀直哉高橋新吉と『百万人の夜』なるエロ雑誌をチャンポンにして読み、キスとはひたすら吸いこむものと誤解して、墓場でデートした女子高生の唇からバキュームカーのように肺内の空気を吸いだして気絶させたり、煙草は当然、ハイボールの味まで覚え、あげくは級友を誘って駅近くの書店で万引き数回、数学のテストで連続三回零点のほか、化学、物理、生物などいずれも毎回一桁の点数、漁船に潜りこんででも日本を脱出したい、大きな都会に行きたい、そのためなら共産党員にでもオカマにでもなってやると授業中もまじめに計画していた私は、文字通りこの進学校の恥。果敢だったけれども、ただのばかだった。このあたりのつまらぬ記憶はなぜか比較的に鮮明なのだ。後はおぼろ。

『反逆する風景』講談社、1995年、183-184ページ。

 

 <大学時代>

 大学では月並みにデモに明け暮れて、まれに歌うことがあっても、これも月並みにインターやワルシャワ労働歌。ただ、警棒でぶん殴られて病だらけになった体を引きずっては高田馬場の音楽喫茶「あらえびす」に行き、カザルスやランパルで痛みをこらえていた。

『反逆する風景』講談社、1995年、187ページ。

 

 

 わたしもなにせ半世紀ほど前のことだが、学生運動をしたことがある。K君はかつてわたしがいた党派とはちがうセクトで活動しているようであった。二つの党派(他の党派もだが)は過去に凄惨な殺し合いをしたことがある。それは、この国の学生運動だけでなく、政治、文化、思想の各面に、いまだに視えない死の影を投げている.わたしはそうおもっている。友人のひとりは脳漿が周囲に飛びちらかるほど鉄パイプで頭を打ち砕かれて死んだという。

『いま語りえぬことのために―死刑と新しいファシズム毎日新聞社、2013年、128ページ。

 

 この文脈から、大学時代の学生運動ではいわゆる新左翼セクト(党派)に属していたことがわかる。党派に属さない活動家やグループであったノンセクト・ラディカルとしての活動ではなく、セクトには属していたが、そこで活動は、組織に忠実ではなくどこか一匹オオカミ的で、かつ懐疑的な面もあったようだ。

 

 わたしは戦後の教育をうけ、不徹底ながらも一時期、学生運動にさんかし、反戦平和をとなえ、デモで逮捕され、しかしなおかつ、小林秀雄をじぶんの頭で批判的に読むことができなかった。よほどのバカなのか。

 『増補版1★9★3★7(イクミナ) 』河出書房新社、2016年、271ページ。

 

 逮捕されたといっても「公安条例違反」程度であり、多数で1~2日間勾留、「完黙」で釈放という、当時ではよくあったものだったのではないか。

 

 護送車やパトカーの窓から、大抵は手錠や腰縄をかけられたまま、大都会の風景を眺めたことが何度かある。デモで逮捕された東京で、公安当局に連行された北京で。いうまでもなく、それは護送車やパトカーが走る大都会の風景を、通りを自由に歩きながら眺めるのとは大ちがいである。窮地にある者の眼には見慣れた街路も行き交う人々も、槌色したように白茶けて萎れて映り、気がつけば、すべての音が死んでいる。

『いまここに在ることの恥』毎日新聞社、2006年、57ページ。

 

<記者・特派員・デスク時代>

 1970年、共同通信社に入社。北京特派員、ハノイ支局長、外信部次長、編集委員などを経て、1996年に退社し、文筆業として独立した。

 大学を卒業して、通信社に就職後すぐに配属されたのが横浜支局だった。別の海との出会いの、それがきっかけとなった。そのころ生まれた長女をごく自然に「海」と名づけ、逗子に移り住んでからは、神奈川の海のほとんどを見てまわった。

『反逆する風景』講談社、1995年、192ページ。

 

 

 アメリカへの研修留学を命じられたというのは、次はアメリカに赴任しろということでもありましたが、私はそれを断って、ハノイに行きたいと会社にいいました。そのときの上司は、まるで私を狂った猿かなにかを見るような眼で見ました。やはりマスコミにとってハノイというのは取るに足らないところというのが本音なのですね。大事なのはワシントンであり、ロンドンであり、東京なのでしょう。でも私はそうは思わない.本当に大事なところは、まだ二歳か三歳の赤ちゃんの背中にナパーム弾が落とされるところであり、子どもが飢えているようなところだと思うのです。そういう場所こそが世界の中心であるべきなのです。

『たんば色の覚書 私たちの日常』毎日新聞社、2007年、121-122。

 

 

 北京特派員時代、ニュースソースを明かせという当局の要求を拒否していたら、報復なのであろう、そのような目に遭った。結局は国外退去処分とされたのだが、連行の途次では、たぶん殺されはしないにせよ、二、三年は身柄を拘束されるかもしれないなと想像した。

 『眼の探索』朝日新聞社、1998年、164ページ。

 

 

 わたしはおそらく他の人よりは多くの戦場を見てきている人間です。中国とベトナムの戦場も見た。カンボジアの戦場も、ボスニアの紛争も見た。ソマリアの内戦も見た。飢えて死んでいく子どもたちも見てきました。いつも奈落の底で、自分一個の存在の無力を思い知らされました。自分には精神の中心となる場がない。一介の故郷喪失者、たしかな想い出もなくしてしまったデラシネだ、根なし草だと思っていました。よくいえば、自分はコスモポリタンみたいなものだ、わたしにはルーツがないのだとさえ思ってきました。

『瓦礫の中から言葉を わたしの〈死者〉へ』NHK出版、2012年、19ページ。

 

 特派員時代には、一時期、離人症のような状態に陥っていたこともある。

 

 退社して文筆業

 ぼくは長く勤めた通信社を辞めて山谷の近くで五年近くを過ごしました.段ボールハウスで何とかしっかり暮らそうとしている無宿者も多くいましたが、さながら地蜘蛛のように全身土にまみれて這い蠢くだけの人間も何人か眼にしたことがあります。

『自分自身への審問』毎日新聞社、2006年、31-32ページ。

 

 

 僕なんか本当に息がしにくくて、しょうがないんです。ちょっとものを書いたり言ったりしただけで、両刃のカミソリを封筒に入れて送ってきたりするんです。手紙も、何も書いていない。びっくりします。

 『夜と女と毛沢東吉本隆明辺見庸文藝春秋、1997年、72ページ。

 

 

 三年もつきあった女とゆえあり別れた。別れ際に、彼女は急性の失語症のようになった。口をぱくぱくするのみで、音声がでない。不可思議な貌であった。眼から絶え間なく涙が流れるのに、頬が心なしか笑っている。パンプスを小刻みに踏み鳴らしなにごとか懸命に語ろうとして、結局一語も発せず去っていった。名状のひどく困難な、そのような記憶ほど長く尾を引く。言葉の大海原では、つらい沈黙のほうが、ときには能弁なのだと知った。

『独航記』角川書店、1999年、131ページ。

 

「山形から桜桃が送られてきた。ことしのはずいぶん豊満なやつだ。神谷町に住んでいた去年のいまごろも頂戴して、女と躰中が甘酸っばくなるほど食った。」(『独航記』角川書店、1999年。のち角川文庫、2004年)。87ページ。

 「出張から帰ったら、アパートでほかほかの料理をこしらえて待っているはずの顔のでかい女が消えていた。おまえのような超阿呆ばかのクソッタレのカスみたいな作家は世の中の害毒にしかならないから一日も早く死んじまったほうがいい、みたいな走り書きを残して。論旨にはほぼ賛成だが、俺は落ちこんだ。」『同上書』99ページ。

 

 血圧は上が180で、下が140いくつ。『新・屈せざる者たち』朝日新聞社、1998年、118ページ。

 

 家族は妻、長女(名前は「海」)。別居を経て、離婚した。「変哲もない平穏な家庭というものが実は血なまぐさい世界に一番近い、と私は思っている。平穏無事な家と血まみれの世界を分かつ境界なんかない。居直りでいっているのではない。壊してしまった家庭の問題」。(『自分自身への審問』毎日新聞社、2006年、173ページ)。

 

 「電話が入り、反射的に受話器を取ったら、ディスプレーに「コウシュウデンワ」の表示がでた。受話器を取ったのは失敗だ。公衆電話から私に連絡しようとする者たちのほとんどは、右にせよ左にせよ、発信元をトレースされるのを恐れている連中ばかりだ。つまり、なぜだか私が警察に盗聴されているという前提で電話をかけてくる。むろん、愉快な電話などあるわけがない。今回は中年の男の押し殺しただみ声で、「ば-か、死ねよ」。これだけで切れた。アフガンから帰国して間もない先月にも、同じ声の電話があった。そのときは「死ね、ばか」だったが。ただでさえ鬱気味なのに、いっそう気が塞ぐ。心の片隅では、これはかならずしも右翼筋ではないのかもしれない、と思ってみたりする。昔つきあった女の愛人とか亭主とかではないか、などと。どちらにせよ、譽察に警護を頼むわけにはいかない。だいたい、洒落にもならない。受話器に向かって、私も「ば-か、死ねよ」と低くいってみる。

 『永遠の不服従のために』毎日新聞社、 2002年、148ページ。

 

 

 二〇〇四年の三月に脳出血で倒れて、その後遺症でスムーズに歩くことができない。つづけて二〇〇メートル以上歩くのは、かなりしんどくなっている。それと、その翌年にはがんになった。翌々年には別のがんにもなった。PPJだね。ぼくは、じつは身体の話、病気の話があまり好きではないので、詳しくはしませんが、まあ、自分が想像もしない、考えもしないような状態におちいった。(筆者註:PPJ:パーフェクト・ポンコッ・ジイサン)。『しのびよる破局 生体の悲鳴が聞こえるか』大月書店、2009年、134ページ。

 

 病気で15キロも痩せた。

 

 私は現在六十八歳で、東京都公認の二級の身体障害者であります.バツイチで、犬と暮らしております。

『いま語りえぬことのために―死刑と新しいファシズム毎日新聞社、2013年、42ページ。