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辺見庸 研究 ~内宇宙への旅~

辺見庸の発言は、ときに「荒れ球」や「魔球」もあるが、「剛速球」が身上である。その根源にある思考とは何か。

6.中間層の変質

     保守化が世界的な傾向となり一部が右翼勢力として、弱者を差別し排除している。その一方でテロなどによる反撃が行われている。

 報復の連鎖が断ち切れないのは今に始まったことではないが、そのなかで弱者はつねに苦しめられ財産を失い殺傷されてきた。こんにちの世界情勢はまさにその局面が拡大しているのである。

 

 ところが実態を凝視すれば、明らかにこれまでとは異質な情況であることが分かる。値観観の底が抜けてしまった社会。核兵器をはじめ大量殺戮兵器のなかで危機感が鈍化してしまっている。金融資本主義・消費資本主義に侵されている経済、身体性・原物質性が限りなく希薄化し、権力者による破廉恥で無定見な政治がまかり通っている。にもかかわらず、私たちの多くは抵抗し反逆の狼煙をあげることなく、権力の横暴を看過し冷ややかに見つめているだけである。その背景には何があるのか。打開できる道はないのか。この情況ではやはり破局・滅亡への道を歩むしかないのか。

 

 人間が内包するスィン(罪業)が表面に露呈している。格差が拡大するなかで、格差貧困層富裕層の二極分化だけが問題ではなく、所得は減少したけれど中間層に属する人の割合は低くはない。守るべき「小さな城」をもっている中間階層。この層の人びとはかつては良識ある人として民主主主義を定着させ発展・成熟させると期待されてきた人たちであった。だが、いまや彼らは「小さな城」に呪縛されそれを守ることが第一義になり、「小さな城」の保持と現状での受益が目的化してしまっているのである。

 

 個の断絶の隙間を狙って世界中の資本とそれと癒着した権力者たちが、すべての国民を守る理念も気概もないまま「期待収益」の美辞麗句や「ショックドクトリン」を駆使している。「小さな城」は、かつてはマイホームと呼ばれていたが、今やマイハウスでしかなく(自家所有ではなく借家・借間であっても)、人生を賭けて守るべき対象は、平和で公正な社会、皆が希望のもてる「明るく健康な」暮らしであるいう当たり前のことさえ欠落してしまっている。失うものはなにもない労働者が、失うものをもってしまった。マイハウスの保有とそこでの一定水準の生活こそ守るべきものとして最優先されるという倒錯に陥り、その基盤のあり方への想到ができなくなっているのである。

 

 貧者や弱者、最新底辺部に住まうホモ・サケルたちだけが、公正の価値を直覚しているというパラドクスが出現でしているのだ。

 財産と貨幣を潤沢に持った富裕層と、それらをもたない者との間において、少しばかりの財産と貨幣をもちそれに呪縛されているのが中間層である。私たちのいのちと暮らしが、どのように成り立っているのかの洞察、歴史認識に根差した見識、個人そして家族のより良い生活水準へ欲求と現実社会の問題との確執の打開。

 

 「不条理な」苦痛―つまり各人が自分の責任を問われる必要のないことから負わされる苦痛―を減らさなければならない、という価値理念に歴史の進歩の規準が求められる」。

  出典:市井三郎(1971)『歴史の進歩とはなにか』岩波書店、208ページ。 

 

 中間層に焦点を合わせ、彼らのニヒリズムまたは倒錯意識による呪縛を解き放つ。さらに言えば、いっそ「もってしまった」ことによる恥辱を直覚する。「抽象的に言えば」精神の極貧化を介して、「ホモ・サケル」としての自覚に至るのである。

 

 かつて戦争に駆り出され多数の人は命を失い、残された人たちも敗戦によって財産を失った。国・権力者の主導による妄動は繰り返させてはならない。国・権力者がまたしてもそれを仕掛けてくるならば、先にあるのは「もってしまった」者たちの生活基盤の喪失である。それを防ぐためには矢も楯もたまらず立ち上がることを覚悟しなければならないであろう。現在の保有物をシャッフルしてでも立ち上がらざるを得ないのではないか。権力者による意識操作や扇動に惑わかされることなく、冷静に見つめる目をもちつづけなければならない。

  現代は、事実・真実よりも一部を少し誇張、脚色してでも、相手の感情・嗜好・信条に沿って訴える方が説得力がある時代だという。Post-Truthなどという語がまかり通っている。これはマスメディアという意識産業にでっち上げられた状況でもあるが、根本は、人びとが幻影と効用による感性しか持ちあわせない限りなく「無機物」に近い存在になってしまっていることを意味するのではないか。

 辺見によるファシズム、右傾化と中間層に関する指摘をみてみよう。  

 勉強家のK君は、大阪市長選挙において、平均世帯年収と橋下市長に投票した割合の関連をさぐった客観的データやグラフなどを添付して、平均世帯年収が高い区ほど橋下に投票した割合が高かった事実を教えてくれた。さらに「富裕層が橋下市長を支持していると結論づけるのは早計だが、低所得者が支持層の中核という一般的なイメージと違うのは明らか。中流層のいっそうの分析が必要」とする研究者のコメントも紹介して、「生活に追われて政治的なことを考える余裕もない人たちよりも、新自由主義と右翼的な知識を身につけた中間層とその予備軍(学生)が、維新の会や安倍政権と潜在的に意識を共有している主体ではないか」と問題提起.「いまむしろ一番警戒すべきなのは、橋下市長の慰安婦発言や在特会のような『行き過ぎ』には眉をしかめ『ああいうのを支持する人間は低学歴の貧乏人」と距離を置きながらそれと本質的には変わらない安倍首相の外交姿勢や朝鮮学校の無償化排除を『正論」、『まとも』だと支持するような『普通の人たち』の動き、増大する一方の貧困層に対して、自分だけは堕ちたくないという意識から「自己責任論』を振りかざすような『普通の人たち」の動きであって、いまおこっていることは、貧困者ではなく没落の危機にひんした中間層が保守化・ファッショ化するという古典的な『ファシズム』と捉えるほうが適切なのではないでしょうか」と疑義を呈してきた.わたしはK君に感謝する。そして「これ以上ないくらい無邪気な装いで、原ファシズムがよみがえる可能性は、いまでもある(131-132ページ)。(中略)

  トルコ人たちが多く住むベルリンのクロイッベルク地区にいた。そこで知りあったトルコ人青年の言葉をいまでも忘れない。「ほんとうのネオナチって、貧しいスキンヘッズじゃなくて、ほら、立派な背広を着て、革のソファーに座っているような、上流のドイツ紳士の心のなかにもあるんじゃないかな」.外国人排斥などぜったいに口にはしない笑顔のドイツ紳士.現実に排斥運動が起きれば、眉をひそめ、首をふりながらも、心中ひそかに快哉を叫ぶ医者やジャーナリスト。「かれらのほうがよほど怖い」と青年は語った。(中略)

 あってはならぬという主観と、起きる可能性があるという客観は別物だ。可能性を、私は否定できない」.二十年前、そう言いた。K君は『もの食う人びと』を読んでくれただろうか。(132-133ページ)

 『いま語りえぬことのために―死刑と新しいファシズム毎日新聞社、2013年。

 

 

  <参考> 日本の所得階層

極貧層         

150万円未満

貧困層 

150~250万円

脱貧困直前層

250万円~350万円

 

 

弱中間層

350万円~450万円

中間層 

450万円~700万円

脱中間直前層

700万円~1,000万円

 

 

富裕層

1,000万円~2,000万円

富裕層

2,000万円~5,000万円

富裕層

5,000万円以上

 

*金融財産保有の程度、持家(ローン可)の有無、労働形態が、上記の階層区分の質的要因として加わる。

*  数字は年収を示す。

*  階層は勤労世帯単位を想定。

 

*参考http://www.mhlw.go.jp/toukei/saikin/hw/k-tyosa/k-tyosa13/dl/03.pdfhttp://www.mhlw.go.jp/toukei/saikin/hw/k-tyosa/k-tyosa03/2-2.html

   マルクス経済学による階級論が、価値創造の主体(担い手)との連関が取れず、またいわゆる中間階級(階層)論もそれを打開できなかった。歴然と存在する所得格差を軸に他の要素をからめて階級論を再検証する必要がある。