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辺見庸 研究 ~内宇宙への旅~

辺見庸の発言は、ときに「荒れ球」や「魔球」もあるが、「剛速球」が身上である。その根源にある思考とは何か。

7.透徹・鋭刃の言説

 辺見の指弾は鋭刃の切れ味を示す。その対象は、

 ジョージ・W・ブッシュオバマ、安部・麻生・小泉一派、天皇裕仁阿川弘之谷川俊太郎林房雄ほか。

 これらの人々の罪業が暴かれていく。

 辺見庸父親(和郎)に対しても複雑な心情で批判している。

 

 特筆すべきは、辺見の思索に強く影響を及ぼして敬う点が少なくない作者にも、「譲れない点」については、彼がずばりと指摘していることである。

 小林秀雄太宰治吉本隆明丸山眞男石原吉郎堀田善衛埴谷雄高柄谷行人ほか。

 

 なぜそこまで厳しく迫るのか?このブログでは、その痛罵を辺見庸の「剛速球」と称しているのであるが、彼の意識と行動には、どうやら次のことが貫かれているのではないかと考えるに至った。

 

 知の純度を極限まで上げる。「理知」の探究。50年、100年先を見据える。数学を極北とする理学においてそれは顕著にみられる。たとえば「僕は論理も計算もない数学をやってみたい」、これは数学者の岡潔の残した言葉である。

  「理知」の探求は、社会科学、人文化学においても、可能であるはずだ。現実の世界は、反知性、国家の干渉、人の劣情など阻害要因が多いものの、辺見は「理知」を極限まで求める姿勢を貫く。「過激」と受け取られようが、あくまでもラディカル。真善美の直截的な探求の姿は過激、根源的なのだ。

 

 ただし、辺見は「重い憂愁の表情の苦行者」(石原吉郎)の佇まいを内に秘めながらも、あくまで生身を生きる。求め続ける。

 一匹の迷える羊がいれば、羊飼いは、他の99匹の羊を放置してでもその一匹を探しに行く。それが自然に備わった人倫である。そこでは打算や管理の要諦を超えている。辺見の生体はそういう状況になれば、同様の行動をとるのではないか。

 

 高度な理知の探求。資本と権力はそれを蔑にし、抑圧し、変質させる。とりわけ社会科学(法学、政治学、経済学、社会学等)や人文科学(哲学、史学、文学等)においてはその傾向が顕著である。理学(数学、物理学、化学、生物学等)とは大きく異なる点だ。

 

 辺見庸の思いと佇まいの特徴は「内的自由」を求めることに尽きる。「過激」とも受け取られる発言、表現は、それが資本と権力に侵されつつあるからである。

 

 辺見の言説は汚濁にまみれた世間とでは違和感が生じるが、実質は「根源的」であるから必然にそうならざるを得ないのである。あくまでも「理知」を求め「世間」や「溶解」を拒否する。

辺見庸は、剛速球以外に変化球、魔球、荒れ球を投げる。それは魯迅の思想・意識・行動に通底するものが辺見にあるからだと思う。

 

 突き破ることができなかった。「理念と論理のまま身体が動かなかった」。突き抜けた人たちに内心で「異議なし」と叫びつつ、憧憬を帯びた心情がときとして彼を襲う。 

 この世の不条理と災厄に満ちた現実。世界にはびこるクライムとスィン。いっそ全滅や意識的なフェードアウトする生を。叫び、望んでしまう。

 

 辺見庸は、独自の対置法によって、実時間の世界の現実を凝視し、そして発言している。

 

 二〇世紀のある哲学者が言っています。(中略)人間が自分たちの理想や意志の力で世界を変革する運動はもうないという。これは日本一国の現象ではなくて、世界的現象です。欧州にはそういう考え方の人間が多いと思います。(中略)

活字文化は終わったと言う人がいますね。ある意味でそうなのかもしれません。人間が意志の力で世界を変革する時代も終わった。活字文化も終わった。フランス革命を起点にするような人権を尊重する精神も終わった。この先はわからない。ただこの三つの流れは、今後もう出てこないでしょう。 政治は退行する。封建時代が再来するかもしれない。このパラドクスが、ぼくは最初はわからなかったんですが、最近はそうなのかもしれないとも感じます。

 対談『絶望という抵抗』辺見庸佐高信、金曜日、 2014年。151、196ページ。

 

 知識人や言論人といわれる人びとのなかに、このような透徹した洞察をしている人が、はたしてどれくらいいるか。