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辺見庸 研究 ~内宇宙への旅~

辺見庸の発言は、ときに「荒れ球」や「魔球」もあるが、「剛速球」が身上である。その根源にある思考とは何か。

11.下降願望

 上昇志向、権力志向、上流好み、それらの真逆が下降願望である。ドロップアウトという語もあるが、これは下降願望とすこしニュアンスが異なる。

 下降願望とは一般的には、自分のいまの社会的位置や生活水準よりあえて低いところへ身を置きたいとの欲求である。物的生活のみならず知的活動や暮らし向きをあえて「機能的で洗練化されたものでないところへ移転したい」との願望も含まれる。近代知の「窒息感」から脱却するべく、反近代、非近代の世界に身を投じるのである。タヒチに移り住んだゴーギャン、炭鉱夫たちの中に自ら入り込んで暮らし、また或る貧しい売春婦との結婚を望んだゴッホ、晩年エチオピアのハラールで武器商人になったランボー

 

 アナーキーで自由への願望が強い芸術家たちには下降願望の強い人が少なくない。魅力ある異世界へのダイビング・イン、上昇志向やさまざまな紐帯・呪縛からの解放、ホモ・サケルが多いと目される空間への身の投入。最深底辺部の暗闇への移動は、創造者にとって生命の深淵に生きることでもあるのだ。

 

 もう一点、贖罪の意味や自責の念、葛藤からの逃避などを求めての下降願望がある。そこには観念的な自己対話を無化する「空間」に身を置くこと、相対的な安寧の獲得といった意味合いがある。

 

 いずれにしても下降とは、最深底辺部に向かっての移動である。

 辺見庸の下降願望は、詩人・小説家のデカダンスの色彩を帯びてはいるものの、下降に伴うマチエール抜きでは思念が発酵しない性質のものである。著作のなかにそのことが読み取れるのだが、それは辺見の故郷である石巻の海岸や松林で、幼い頃の彼が目撃した風景が、心のなかに陰画となって焼き付けられているように思われてしかたがない。その陰画には剝き出しの生が写されている。

 

 「地方の夕刊紙ですね。よくてもゴワゴワで灰色のチリ紙。それを最初、もむんですね。使ったあと、これが風で空に舞い上がるんですよ。三陸で風が強いからトビが飛んできてくわえるんです。ずっとそれが忘れられないですね。空がいつも灰色でした。松林の奥でですね、まだ足を開いて横になっている女の前で、男が仁王立ちになってベルトを締めるところなんてかっこいいなと思ったんですね。まったく、いいもの見て育ちましたよ。全然話が違って申しわけないですけど。」(『屈せざる者たち』朝日新聞社、2000年、28-29ページ)

 

 陰画には、ほかにも辺見にとって思い出深いと思われる画像がある。

「波の荒い夕暮れ時、松林で空気銃で雀を撃っていた不思議な大男 (『反逆する風景』p.88.) 。乳首が四つあった幼なじみのJ(『独航記録』pp.74-76.)。海岸近くにあった競馬場、厩舎、麦畑、売春宿(『美と破局』p.150.)。淡紅色の木橦の花の向こうに身を隠した女(中学生時代に思いを寄せていた東京からの転校してきた女子学生)(『美と破局』pp.150-152.)。何時間でも釣れない釣りをして海岸からいっしょに帰宅した鉛のようにふきげんだった父(『1★9★3★7(イクミナ) 』p.151.)。その父を、殺そうとおもったことがある、殺してあげようとおもったことがある、だれもいない入り江(『1★9★3★7(イクミナ)』p.154.)。」

 

 

 ああ、下降願望ですか。古山さんと違うかもしれませんが、私も下降好き、落伍好きだと思います。でも、いまの時代、簡単には下降もさせてくれない。下降の至福を味到できるような価値観もありません。全体がクラゲみたいに漂っているだけですから。

『同上書』159ページ。(古山高麗雄との対談)。

 

 

南千住駅で降りると、やっぱりすごい顔、ほんとに存在感のある顔がいっぱいあるわけですね。重く長い物語を顔じゅうに刻んでいる。(中略)管理社会が排除する人間の量が増えてる気がする」。

『新・屈せざる者たち』朝日新聞社、1998年、2000年、119-120ページ。

 

 

 「私は下降願望がつよくなりまして、落ちぶれるのがいちばんいいんだと考えるようになったんです。女と親しくするなら娼婦がいちばんいいし、社会では下積みがいちばんいい、と」。七十もとうにすぎていたのに、古山さんはそんなことをいった。だからどうしたと問われれば、どうということはないと答えるほかない。

 『いま、抗暴のときに』講談社文庫、2005年、93ページ。