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辺見庸 研究 ~内宇宙への旅~

辺見庸の発言は、ときに「荒れ球」や「魔球」もあるが、「剛速球」が身上である。その根源にある思考とは何か。

12. 小林秀雄の罪

 小林秀雄の思想には強力な説得力がある。ものごとの「本質」ないし「核」への精神主義とでも呼ぶべき鋭い洞察に基づく断定的な文章が読者の心をつかむ。

 辺見庸も学生時代に小林を読み、そして惹かれていた。

 

  新潮社版小林秀雄全集は革背表紙の豪華本で、バイト料が一日五百円だったのにたいし、全集は一巻あたり八百円であり、わたしは頁を汚さぬように毎回、石鹸で手を洗い、だいじにささげもって小林秀雄を読んだ。一九六〇年代のなかごろ、わたしにとって、たぶん他の多くの学生にとっても、小林秀雄は依然〃確立された知″であった。(中略)

「歴史は決して二度と繰返しはしない。だからこそ僕等は過去を惜しむのである。歴史とは人類の巨大な恨みに似てゐる。ここに「歴史を貫く筋金は、僕等の愛惜の念といふものであって、決して因果の鎖といふ様なものではないと思ひます」以下がつづくのである。このうち、「歴史とは、人類の巨大な恨みに似てゐる」は、むりやり彫られた刺青のように、消そうにも消せずに、いまも青黒く胸にのこっている。十九のわたしはなにを誤解したのだろうか。(中略)

  小林には、よくわからないけれど、学ぶべきなにかがある(きっとあるはずだ)とおもっていたのだ。耽溺こそしなかったけれども、小林というニッポン製の知の培養基を、いかにも怪しげなもの、いや、それどころか、知的衣をまとった実質上の戦争勢力同伴者であったと嫌悪することはなかった。小林秀雄を読んで、背中をおされるように戦場におもむいた者もいたにちがいないだろうこと、そのことじたいに小林は死ぬほど苦悩すべきであった……と、おもいいたることもなかった。

『増補版1★9★3★7(イクミナ) 』河出書房新社、2016年、268-269ページ。271ページ。

 

 小林秀雄は矛盾の指摘や批判を「言挙げ」として退ける。そこには有無を言わせない「迫力」さえある。だからこそ危険なのである。危ない落とし穴を秘める小林秀雄の言辞を以下に記す。

 

  僕は政治的には無智な一国民として事変に処した。黙って処した。それについては今は何の後悔もしていない。大事変が終わった時には、必ず若しかくだったら事変は起こらなかったろう、事変はこんな風にはならなかったろうという議論が起こる。  

  必然というものに対する人間の復讐だ。はかない復讐だ。この大戦争は一部の人達の無智と野心とから起こったか、それさえなければ、起こらなかったか。どうも僕にはそんなお目出度い歴史観は持てないよ。僕は歴史の必然性というものをもっと恐ろしいものと考えている。僕は無智だから反省なぞしない。利巧な奴はたんと反省してみるがいいじゃないか。  (「小林秀雄の発言」、一九四六年(昭和二一年)二月座談会「コメディ・リテレール」『近代文学』)

 

 「必然というものに対する人間の復讐だ。はかない復讐だ」「歴史の必然性というものをもっと恐ろしいものと考えている」。短い文章のなかで「必然」を繰り返す。ここに小林秀雄のレトリック及び精神主義による「思考停止」の誘導がある。が、史的唯物論で用いられている歴史的必然という語が、全く別の意味の、いわば「宿命」を含意する語として用いられているのである。

 

  ベルグソンがある会議に出席したとき、次のようなことを一婦人が話した。夫が戦場で戦死した時、遠くパリにいてその時刻に夫が塹壕で撃たれた夢を見た。それを取り巻いている数人の同僚の兵士に取りまいている数人の兵士の顔まで見た。後でよく調べてみると、丁度その時刻に、夫は夫人が見たとおりの恰好で、周りを数人の兵士に取りかまれて、死んだことが解った。  それに対してベルグソンは、そういう夢を見たとは、たしかに精神感応と呼んでもいいような、未だはっきりとは知られない力によって、直接見たに違いない。そう仮定してみる方が、よほど自然だし、理にかなって、という言う考えなのです。 (小林秀雄「信ずることと知ること」)

 

 ここでは「精神感応」「自然」という語が、読者への説得のためのキーワードとして使われている。

 辺見庸もこれらによって自らのパッションを揺り動かされた。だが、小林秀雄が戦時中にどのような言動をとっていたかについて調べを進めるうちにその反動性が明らかになってきたのである。

 

 1946年(昭和二十一年)六月に共産党系の雑誌『新日本文学』から「戦争責任者」の一人として名指しされていた小林秀雄辺見庸は、それを知っていたのかどうかはわからないが、十九歳のころは小林秀雄は、そのレトリックに「幻惑」されていたのであった。

 それは『1★9★3★7(イクミナ) 』を著すことによって小林秀雄の罪業への指弾として覆すことになるのである。

 

 

 一九三七年十一月、「戦争について」を発表し、戦争という「烈しい事實」を連呼して、事実上反戦思想にたいする「恫喝者」のやくわりをはたした小林秀雄はなにも国家権力に強いられて、泣く泣くそうしたのではなかった。真珠湾攻撃のはじまる一九四一年、「歴史と文學」を弁じ、「歴史は決して二度と繰返しはしない。だからこそ僕等は過去を惜しむのである。歴史とは、人類の巨大な恨みに似てゐる。歴史を貫く筋金は、僕等の愛惜の念といふものであって、決して因果の鎖といふ様なものではないと思ひます」と、たからかに史的唯物論を否定し、どうじに「國體観念といふものは、かくかくのものと聞いて、成る程さういふものと合黙する様な観念ではない。僕等の自國の歴史への愛情の裡にだけ生きてゐる観念です。他では死ぬばかりです」「日本の歴史が、自分の鑑とならぬ様な日本人に、どうして新しい創造があり得ませうか」と、いま読めばウョクの街頭演説なみのアジをやってのけた小林は、けっして特高の要請ないし強制でさけんでみせたわけではないのだ。

 言ってみれば、〈心底にあるおのずからの全体主義的自覚〉から、自発的にアジったのである。ヒムラーをさんざうらやましがらかんようせ感心させた、ニッポンにおける〈おのずからの全体主義的自覚〉の涵養に、小林はひとやくかばもふたやくもかっていた。にもかかわらず、敗戦後もほとんど無傷で、みんなに庇われ、もちあげられ、すべてのメディアからほとんどれいがいなく賞賛され、あげく、一九六七年にはめでたく文化勲章を受章している。くりかえしになるけれども、ニッポンとはそういうクニである。他人事ではない。

 

  十九歳のわたしはわたしでバイト代の大半をつかい、新潮社版小林秀雄全集を買いこみ、大半の文章を〃誤読″していた。小林秀雄の文章はとてもキャッチーである.「個」にみせかけた共同意識を浸透圧の原理を用いてそれとなく注入してくる。ニッポンを無前提な「運命共同体」とし、そこからの離叛をはげしく叱る.国家と個別人間身体をくべつせず、前者に後者を包摂させてしまう.ニッポン古来の「無常観」を、いかにも非政治的なよそおいで、そのじつ政治的に活用している。

『1★9★3★7(イクミナ) 』金曜日、2015年。のち『増補版1★9★3★7(イクミナ) 』河出書房新社、2016年、277-278ページ。

 

 

「南京攻略の祝勝気分に沸きたつニッポン「内地」では、この「陣中授与式」を、むごたらしい惨劇をかくす〃文化的化粧″とは、だれしもかんがえはしなかったようだ。なにしろ、わざわざ杭州までおもむき、芥川實授与式であいさつし、正賞の懐中時計を葦平に手わたしたのは文藝春秋社から特派された小林秀雄だったからだ。

『1★9★3★7(イクミナ) 』金曜日、2015年。のち『増補版1★9★3★7(イクミナ) 』河

出書房新社、2016年、179ページ。

 

 

 小林秀雄の「戦争について」は対中侵略戦争を肯定しただけでなく、この大弾圧を積極的に支持したものでもあり、「自國民の團結を顧みない様な國際正義は無意味である」「僕はたゞ今度の戦争が、日本の資本主義の受ける試煉であるとともに、日本國民全體の受ける試煉である事を率直に認め、認めた以上遅疑なく試煉を身に受けるのが正しいと考へるのだ。この試煉を回避しようとする所謂敗戦主義思想を僕は信じない。極言すれば、そんなものは思想とさへ言へないのだ」とは、日本無産党と人民戦線およびその支持者、さらには厭戦思想、反戦思想のもちぬしたちにもむけられたのである。

『1★9★3★7(イクミナ) 』金曜日、2015年。のち『増補版1★9★3★7(イクミナ) 』河出

書房新社、2016年、274ページ。