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辺見庸 研究 ~内宇宙への旅~

辺見庸の発言は、ときに「荒れ球」や「魔球」もあるが、「剛速球」が身上である。その根源にある思考とは何か。

16.執筆要請の減少

 文筆業者も売文業者である限り、市場原理を了解しなければならない。

 市場経済においては出版物も商品であり、売れなければ市場から退却を強いられる。出版社は固定費と限界費用と売上の関係から損益分岐点を下回っては経営が成り立たない。

 

 そのうえ出版業界を含む情報産業は、「意識産業」として位置付けられるようになっていて、政治・経済体制を支え牽引さえしているという面が濃くなっている。

 

 いま朝日新聞はぼくに執筆を要請しません。以前は連載ももっていました。コメントも求められました。しかしいまは書かせない。コメントも求めない。いつどういう機関決定をしたのかわかりません」。(対談『絶望という抵抗』辺見庸佐高信、金曜日、 2014年、118ページ)。

 以前、朝日新聞から何か書いてくれと打診がありました。書くにあたっては長いものになるから、事前に話が聞きたいと言う。書く前に話を聞きたいという姿勢にぼくはムツとしましてね。その旨伝えたら<じゃあ、うちでは無理ですね>と断られた。そうやって少しずつ自分の可動域が縮小していく。」(同上書、188ページ)。

 残念ながら、もう執筆要請もございません(笑い)(同上書、117ページ)。

 

 

 これほどの事態が起きているのに、抵抗の質と規模はこれほどのものでしかないのかと残念に思った。しかし振り返ると、いまの十倍くらい大きな規模でした。そのことを書いたら、ピースアクションの主催者だかに誌面上で反論されました。極左あがりが何を言っているんだという調子で、あまりにお粗末な感性だった。(同上書、164-165ページ)。

 

 朝日新聞社やピースアクションに、辺見を排除または避ける状況があることがうかがわれる。辺見庸の作品(著作物)の創作も、市場経済、消費資本主義によってスクリーニングされていることを示している。

 

 著作物という情報商品は、思想・表現の自由の産物であり、本来「採算至上主義」で生産・流通されるべきものではないのだが、まともに商品戦略、価格戦略、販売促進戦略、流通経路戦の直接の対象になってしまっているのである。

 ただし、出版社は扱い商品が多数あり、個々の出版物の組み合わせ(商品ミックス)によって採算を考える。また、市場を細分化して、またはニッチ戦略によって一定の売上を確実に確保するといった方策をとることは可能である。生産者(出版社)と消費者が一定の了解のもとで、商品(作品)の生産・流通・購買を図るといった方式もある。さらには、生産・流通・消費の連携を貫くことによる打開策もある。

 

 作者や表現者は、市場経済のなかで「ニヒリズムと創造行為という自由でアナキスティックな営為」において、ぎりぎりの「自己規制」をしながら腐心している。

 あたかも蜘蛛が自分の網の巣で自由に行き来する(粘着質のない縦糸を選んで移動する)ように、消費資本主義社会に足をすくわれないように対処しながら。

 

 いずれにしても表現者としては「大量生産・大量販売・大量消費」に呪縛されることはない。それへの依存や直截的な異議申し立てや不満は、そのシステム(土俵)での闘いに組み込まれてしまうのであり、実質的な使用価値を評価する生活者としての営為が望まれる。

 「最も小額の費用で生活して、それ以上に労役せぬこと―。」(尾形亀之助

 肝要なことは、マス社会での「成功」「受益」をいつまでも引きずらないということかもしれない。

 

 辺見庸も自身で述べていたではないか。

「これからは書きたいことだけを書かせてもらう。百人支持してくれればいい。いや、五十人でいい。百万人の共感なんかいらない。そんなもん浅いに決まってるからね。」

(『記憶と沈黙 辺見庸コレクション1 』毎日新聞社、2007年、120ページ)。

 その実践である。