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辺見庸 研究 ~内宇宙への旅~

辺見庸の発言は、ときに「荒れ球」や「魔球」もあるが、「剛速球」が身上である。その根源にある思考とは何か。

19.俗情、佇まい  ~自省または自覚、自責、吐露(その3)~

 社会的な名誉なり栄誉を得ると、ましてや活動期にそれらを得ると、二重人格と間違われるくらいの表裏異なる面が見え隠れするものである。

 才能豊かである人は所謂「選良意識」をもってしまい、尋常でないことがその意識をますます増長させる。自己言及を怠り内省力が脆弱化または変質してしまうのである。

 

 辺見庸は、そのことを身を持って知悉している。そう思われる。

 かといって、そこには痩せた倫理主義は微塵も見られない。同情や憐憫を誘うような口舌とも無縁である。その類の物言いを嫌う。

 生身の人間とは心身ともに生身である。情報化され記号化された社会の虚ろなことと、荒みを嘆く。反発する。

 世間や制度の暴力性を痛感しているから、したたかに対処するものの、自分の内宇宙の自由を侵すものには激しく拒絶し、時には反撃する。

 

~俗情 俗念~

 私は俗情を俗念そのままに書いてみたかったのだ。気取らず、高踏ぶらないで。俗念とは、私の敵であり、最大の味方だ。どう抵抗しようが、私はいつも俗念の囚人なのである。俗念の井戸に蓋をして理念めいたことばかり語っていると、私の内部はときに激しく悩乱し発熱するのである。

 『ゆで卵』(あとがき:月で樹を伐ること)角川書店、1995年、276ページ 

 

 

 神だの終わりない夜だの試練だの不条理だのはまず考えない。まれに思っても、頭を掠めるていどだ。すべてバカバカしいのではないかと思う。調子のよい日は手すりにたよらずに上り下りする。手すりに触れずに上り下りできると、ちょっとうれしい気持ちになったりする。手すりのたよりになると、なんだか悲しいと思うことがある。そんなことで内心うれしがったり悲しんだりするのも、バカバカしいといえばバカバカしいのだけれども、そこにこだわるのも空しいので、じぶん、すぐに思いをきりかえようとするのであります。

 『明日なき今日 眩く視界のなかで』毎日新聞社、2012年、7ページ。

 

 

 「わたし」がごくおとなしく、フツウに正気で、平和的で、非倒錯的で、いわゆる正義の味方だ・・・という平板な誤解。残念だ。

『いま語りえぬことのために―死刑と新しいファシズム毎日新聞社、2013年、184ページ。

 

 

 私が壊してしまった家庭の問題を棚上げして世界を語ることの不実が問われたけれど、変哲もない平穏な家庭というものが実は血なまぐさい世界に一番近い、と私は思っている。平穏無事な家と血まみれの世界を分かつ境界なんかない。居直りでいっているのではない。

 私は傷つけた人々に私だけの重い責任を負うている。それは事実だ。そこから逃げようとはしていないし、ごまかそうとも思わない。家の問題は大したことがなく、世界の問題は重いから二者を分離し、前者を語らないというわけではないのだ。思考の遠近法が狂っているといわれてしまったが、私の眼には二者が隣接していたり重なって見えることがある。世界を語るとき、私の意識では私が壊した家の風景がときにぼんやりと沈澱していたりする。世界と私の極私的過失には何らかの縁があると感じたりもする。

 『自分自身への審問』毎日新聞社、2006年。のち角川文庫、2009年、173ページ

 

  彼の精神の根茎に染みついた「根生い」は、家庭という制度にそぐわないものであった。彼の妻は、辺見の「下降願望」「性のアナキズムニヒリズムの剥離」(千石英世)が、許容の閾値を超えているとした(と推察される)。このことが、辺見の極私的過失と世界(大状況)との縁のねじれを一層増幅させることになったと思われる。

 

  佇まい~

 ぼくだってもし戦場に送られていたら慰安所に並んでいたと思いますよ。ベルトをはずして、次はおれの番だとか言いながら。その事実に対して、資料がないだとか言うことがこの国の知性なのか。

 対談 『絶望という抵抗』辺見庸佐高信、金曜日、 2014年。71ページ。

 

 

 ごく当然のことをかつてのように当然の顔をして表現してなにが悪いのか。変わったのは僕ではない。変わったのは周辺状況であり、メディアであり、言説の主たちです。したがって僕には抵抗という意識はない。世のため人のためなんて発想も一切ない.本当は世の中なんてどうなったっていいのです。ただ要するに、自分の快不快のため、口はばったいことをいえぱ、自分の実存の“芯”を意識していたいから、いわざるをえないということですね。

 『いま、抗暴のときに』毎日新聞社、2003年,208ページ。