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辺見庸 研究 ~内宇宙への旅~

辺見庸の発言は、ときに「荒れ球」や「魔球」もあるが、「剛速球」が身上である。その根源にある思考とは何か。

20.武田泰淳について

 辺見庸武田泰淳を高く評価している。全くと言ってよいほど批判の言葉はない。

 泰淳には、率直に好感をもっているのである。

 

 武田泰淳(一九一二〜七六年)はわたしのすきな作家である。なぜすきかというと、安心して読めるからである。安心して読めるわけは、小説にめったには「救い」がないからだ。救いのない小説にわたしは救われる。救いのない世の中なのに、救いのある文章を読まされると、とても不安になる。

『1★9★3★7(イクミナ) 』金曜日、2015年。のち『増補版1★9★3★7(イクミナ) 』河出書房新社、2016年、105ページ。

 

 ここで注意すべきは、泰淳を好きな理由が「小説にめったには[救い]がないからだ。救いのない小説にわたしは救われる」からであるという点である。「救いのない世の中なのに、救いのある文章を読まされると、とても不安になる」。辺見の絶望は深い。だからこそ、「救いのない」人間、社会、世界をみている泰淳の思想に同感しているのである。

 

 ぼくは泰淳が好きで、「もの食う人びと」(共同通信社刊、角川文庫)の書名も彼の短篇「もの喰う女」からとつたほどです。

『明日なき今日  眩く視界のなかで』毎日新聞社、2012年、45ページ。

 

 『流砂』『もの喰う女』など武田泰淳の作品タイトルを引用する形で辺見は自著のタイトルをつけている。泰淳の『細菌』という題の小説も「菌糸」のヒントになったかもしれない。

 

辺見:『汝の母を!』は世界に誇る傑作だとぼくは思っています。が、あれは発表当初から現在に至るまで、コントラパーシヤル(議論)になったことがないのですね。正確に言えば、コントラパーシヤルにしない作用がこの国では自動的に働くんですね。いま、この国を便宜的にファシズムと仮定すると、それはナチスドイツのファシズムとは違う、ネオファシズムです。問題を焦点化しない、議論しない。権力がそうさせるだけでなく、下々が自らそう働く。

 対談 『流砂のなかで』辺見庸高橋哲哉河出書房新社 2015年、20ページ。

 

 

母子相姦を強制し、そのあと二人を殺害するという日本の軍隊の中国での蛮行は、戦時下での異常行動とはいえ容認できるものではない。そのような意識と行動は、いったいどういうことなのか。歴史の記憶として引継ぎ議論すべきである。辺見は述べている。「それを権力が記憶殺しによって無化するということが問題だが、この国の人びとがその無化に加担していることがより問題なのだ」と。このことは「鵺のようなファシズム」、「黙契」にも深く関連しているのだ。
 彼(武田泰淳)は黙っていれば自分の罪が発覚しないのを知っていながらあえて告白した。この『従軍手帖』も破棄しておけば、痕跡を消すことができたはずなのに、破棄しようとは考えなかった」と、川西政明さんは書いている。泰淳にそうさせたのは倫理観だったかもしれない。あるいは「過去がなかったら存在がないんだ」(堀田善衞との対話)という哲学がかれに告白を課したのかもしれない。

 『1★9★3★7(イクミナ) 』金曜日、2015年。のち『増補版1★9★3★7(イクミナ) 』河出書房新社、2016年、113ページ。

 

 辺見庸の生き方の根幹に深く影響を及ぼした、または辺見の「根生い」を確固たるものに方向づけたと推察される泰淳の行為がここに明記されている。そこでは同じく中国に出征した辺見の父親の「戦地」と「帰国後」の行動がどうだったのか、そのことが辺見の頭によぎっているとみてよいだろう。

 

 今を生きるために、都合の悪い過去は消し去って「前向きに」生きるのが世渡り上手。そんな世間の常識は「クライム」さえ犯さなければ厚顔無恥に生きたとしても許されるかもしれない。だが、表に出て「切った、張った」するからにはそれは許されない。きっちり過去に落とし前をつけ、「今を生き」なければならない。そういうことではないか。

 

 「泰淳は聖書や『史記』に描かれている滅亡と地獄のものすごさを想起して「すべての倫理、すべての正義を手軽に吸収し、音もなく存

 在している巨大な海綿のようなもの。すべての人間の生死を、まるで無神経に眺めている神の皮肉な笑いのようなもの。それら私の現在の屈辱、衰弱を忘れ去らしめるほど強烈な滅亡の形式を、むりやり考えだしてはそれを味わった。そうすると、少しは気がしずまるのであった」(下線はブログの筆者)と書いています。よく読むと「すべての倫理、すべての正義を手軽に吸収し、音もなく存在している巨大な海綿のようなもの」と「すべての人間の生死を、まるで無神経に眺めている神の皮肉な笑いのようなもの」は同格の全的にアパセティックな観念の形象です。

 『明日なき今日  眩く視界のなかで』毎日新聞社、2012年、46ページ。

 

 「いっそ全的滅亡を」との衝撃的なフレーズは、上記下線の文章によって真髄を味倒

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 できる。自暴自棄や悲壮の情緒的な希求とは異なるものである。   「すべての人間の生死を、まるで無神経に眺めている神の皮肉な笑いのようなもの」「私の現在の屈辱、衰弱を忘れ去らしめるほどのもの」を求めざるを得ない自己意識。自死でもって処する前に懸命に想像力を駆使して鎮静を試みている。