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辺見庸 研究 ~内宇宙への旅~

辺見庸の発言は、ときに「荒れ球」や「魔球」もあるが、「剛速球」が身上である。その根源にある思考とは何か。

22. SEALDs への視角

 この国では、民衆は闘うことを避け「和して同ぜず」を旨として集団的協調や長いものには巻かれろとばかりに諦観し、物言わず、服従で対処してきた。陰に陽に抵抗もしてきたが、暴動は少なかった。直情的行動様式より諦観・服従に意識が走っていく性向が根強かった。現在でもそれが引き継がれている。

 

 「日本の反戦の歴史なんてどうせその程度の、あるかなきかのかよわいものでしかなかったとも思いあたるのである。

『永遠の不服従のために』毎日新聞社、2002年。のち講談社文庫、2005年、188ページ。

 

 抵抗は守勢的だが、よほどのことがあると「物理的」抵抗へと移る。反逆は示威行動を展開し早い段階で攻撃に出ることが多い。いずれにしても権力が仕掛けてくる攻勢や暴力に対して生命・身体・財産・公正を守るために抵抗し反抗する。

 抵抗や反逆の形態は多様である。これらは敵の出方によって変化する。

  直截的、逆説的

  個的、集団的、組織的

  不服従、服従(サボタージュ

  非暴力、暴力

  武器使用、身体的、 言論(テロ)

 

 「個」から自由に発想すること。戦争反対を首から上で話すだけでなく、少しでも身体を担保して表現する。めげない。諦めない。戦争勢力に対しては、戦後民主主義が死がいとなって横たわっている。集合的な気分としての民主主義。それがいま、全体主義になっていく。危険な水域に向かっています。ズルズルといつまでも服従しない。そうした永遠の不服従が大切だと思います。

 『単独発言 99年の反動からアフガン報復戦争まで』角川書店、2001年。のち角川文庫、(『単独発言 私はブッシュの敵である』2003年)、87-88ページ。

 

 

 正直にいえば、人数なんか少なくていいのだ。せめても深い怒りの表現があれば。それがない。概してないと思う。地を踏む足に、もはや抜き差しならなくなった憤りというものがこもっていない。怒りというものはこんなもんじゃない。腹の底から喉元に抑えても噴き上げてくる狂った血のようなもの。その逆もある。かってある作家がいった「陰熱」のように、静かに、暗く、くぐもった怒り。比較すれば後者のほうがよほど怖いのだが、いまはどちらにしても、ない。道は当然、揺れっこない。私は、しかし、道はいまこそ揺れるべきだ、揺するべきなのだと考えている。

『抵抗論―国家からの自由へ』毎日新聞社、2004年、10ページ。   

  

 SEALDs(シールズ)によるデモへの辺見庸の視角は、以前から確固たるものであった。そのことを上記の文は示している。 

 

 「いまなによりも期待したいのは、根源の問題を語る若い「思想家」が生まれること。過去にはいろんな色合いの人が沢山いたのに、いまはテレビタレント的評論家ばかりです。暴力に本当に対抗できるのは、口から手を入れて心臓をわしづかみにするような言葉と想像力です。単純に戦争反対というだけでなく、もっと切迫したものとして持続的な運動を形成し、魂を刺激し喚起する表現が必要です。 

 『単独発言 99年の反動からアフガン報復戦争まで』角川書店、2001年。のち角川文庫、(『単独発言 私はブッシュの敵である』2003年)、76ページ。

 

 抵抗や反逆には事後的な意味づけ、後知恵などが出される。そこでは事態のコーティング、改ざん、偽装、変質などが行われる。「造反有理」(かつてよく耳にした!)が、かき消されることもある。これが最も質(たち)が悪い。

 なお、抵抗・反逆の形態の多様性は個々の自由な「内宇宙」によって規定される。代書人バートルビー尾形亀之助石原吉郎、鹿野武一、由比忠之進のような抵抗・反逆もある。

 

 「結果、主人公は官憲に連行され、監獄に入れられる。そこでも主人公は「私としましては、しないほうがよいのですが……」を連発し、食事をも拒みつづけて、結局、眠るように静かに餓死してしまう。拒否のわけは最後まで明らかでない。明らかではないが、だからといって、べつにもどかしくはない。なんとはなしに肺に落ちてしまう。他者に対する糾弾や自己正当化、弁明を抛棄しつくした、世のあらゆる関係性からの柔らかな完全撤退と単独の罷業。まつたき謝絶。その果ての、自覚的な飢え死に、つまり「自餓死」。そうすることにより、自分を他の意向からでなく自分の意思で自然死させるとともに、世界全体に「ノーサンキュー!」を告げているというのが、私の勝手な読後感である。

 『言葉と死 辺見庸コレクション2 』毎日新聞社、2007年、85ページ。

 

 

 いまという実時間の最中に「思う」こと。思惟すること。それを自分の言葉にして表現すること。ときに自己決定をみずからに迫ること。それこそが、この時代にあっての私の抵抗といえば抵抗なのです、

 『抵抗論―国家からの自由へ』毎日新聞社、2004年。のち講談社文庫、2005年、258ページ。

 

 そのほか、抵抗、反逆について、辺見の言説の一端を「出所」のみ記します。

『自分自身への審問』毎日新聞社、2006年。のち角川文庫、2009年、129ページ

『言葉と死 辺見庸コレクション2 』毎日新聞社、2007年、78ページ。

『抵抗論―国家からの自由へ』毎日新聞社、2004年。のち講談社文庫、2005年、  202ページ。

『しのびよる破局 生体の悲鳴が聞こえるか』大月書店、2009年。のち角川文庫、2010年、120ページ。

『新・屈せざる者たち』朝日新聞社、1998年。のち角川文庫、2000年、229ページ。

『絶望という抵抗』辺見庸佐高信、金曜日、 2014年。154ページ。

『同上書』144ページ

『しのびよる破局 生体の悲鳴が聞こえるか』大月書店、2009年。のち角川文庫、2010年、111ページ。

『いま、抗暴のときに』毎日新聞社、2003年。のち講談社文庫、2005年、21-22ページ。

『同上書』161ページ。

『同上書』230-231ページ。

『同上書』233ページ。

『同上書』234-236ページ。

『単独発言 99年の反動からアフガン報復戦争まで』角川書店、2001年。のち角川文庫、(『単独発言 私はブッシュの敵である』2003年)、51ページ。

『反定義 新たな想像力へ』辺見庸坂本龍一共著、朝日新聞社、2002年。のち朝日文庫、2005年、144ページ。

『記憶と沈黙 辺見庸コレクション1 』毎日新聞社、2007年、99ページ。