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辺見庸 研究 ~内宇宙への旅~

辺見庸の発言は、ときに「荒れ球」や「魔球」もあるが、「剛速球」が身上である。その根源にある思考とは何か。

23.柄谷行人への「違和感」 

 柄谷行人はアカデミックな思考をする批評家である。その言説は、吉本隆明ほど「ファンを唸らせる」ものではないものの、中上健次と深い親交があったことなど、その「知」は魅力を十分内包しているといってよい。

 

 辺見庸柄谷行人を評価している。柄谷の考えの多くに賛意を示しているのである。例えばいくつかを掲げてみよう。

 

 柄谷行人氏の言葉を借りれば、彼らコスモポリタンは「あらゆる共同体に背立する単独者」(『倫理21』平凡社)なのである。

『いま、抗暴のときに』毎日新聞社、2003年。のち講談社文庫、2005年。146ページ。 

 

 柄谷行人氏は前掲書(『倫理別』平凡社)のなかで次のように記している。「過去は少しも完了していないのです。いいかえれば、過去の『他者』とわれわれの関係は、完了していないということです」。

『同上書』148-149ページ。 

 

 「国家は、何よりも他の国家に対して国家なのです」。

 「一般的にいって、国家はその内側から見ると、見えませんね」。

 「国家は共同幻想だというのは、内部から見たときにのみいえることです。国家は、何よりも他の国家に対して国家なのです。共同幻想という考えは、そのような外部性を消してしまいます」。

柄谷行人『倫理21)

 

 国家と社会の区別がいまにいたるも暖昧なのだという現状認識(「日本精神分析再考」『文學界』九七年十一月号)。

 

 柄谷の思考・主張が辺見にとって不可欠な糧または発想の展開の触媒になっている(これについては別稿で述べたい)。

 

 だが、辺見が柄谷行人の意見に違和感を示していることがある。それは柄谷の著述『憲法の無意識』における憲法1条と9条、さらには国民主権に関することである。ぜひ原文に目を通してほしい。

 そこでは、柄谷行人が、天皇明仁の「日本国憲法を遵守」の発言を牽強付会に理解して、象徴天皇の実体(国民としての権利・義務をもっていないということ)を直視・銘記していない彼の言説を読み取ることができよう。

(「不寛容社会と希望―デモクラシーの現在―」『神奈川大学評論』第84号、神奈川大学広報委員会、2016年7月、15-17ページ)。

  

 一部を抽出して示そう。

天皇の言説を根拠もしくは権威にして安倍に対抗するという発想」は、戦争法に反対する市民運動のレベルでもチラホラ散見されるし、柄谷さんの論理もそれとまったく無縁ではない気がします。高橋哲哉さんは明仁氏の「お言葉」に依拠して支配権力に対抗するような考え方こそ「天皇制」だとおっしゃる。そうだなとぼくも思います(『同上書』17ページ)。

  

 上記の指摘は、まさに柄谷行人による天皇制に関する理解の問題点を的確に捉えている。これは広義の宗教批判にも通じることであり、辺見庸も含み、天皇および天皇制への「陰熱」のこもった「怒り」の深さの有無もしくは程度が問われているとみるべきである。

  

 なお、辺見は次のような感慨も漏らしている。

「なぜ柄谷行人さんが湾岸のときとちがい、今度はそっぼなのかぼくにはよくわからないな」。

『反定義 新たな想像力へ』辺見庸坂本龍一朝日新聞社、2002年。のち朝日文庫、2005年、191ページ。

  

 柄谷や浅田彰などによってかつて展開された「NAM」について、佐高信が「NAM(New Associationist Movement)なんていう地域通貨の運動をやっていた柄谷行人なんかは、存在自体がピットコインみたいなものですが(笑)」と辺見との対談の中で揶揄している。これには辺見は何ら反応していない。NAMは貨幣呪縛への観念的(概念的)アンチテーゼとしての運動だったのだろうが、それは巨大な貨幣経済の中での、「ビットコイン」にも及ばない泡沫現象と辺見は見ていたのではないかと推察する。