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辺見庸 研究 ~内宇宙への旅~

辺見庸の発言は、ときに「荒れ球」や「魔球」もあるが、「剛速球」が身上である。その根源にある思考とは何か。

24.根ぐされ 荒み

 社会的・経済的な矛盾と不条理に起因した人心の「荒み」と「根ぐされ」によると思われる事件が起こっている。これらは従来の金銭がらみや恨みつらみに依るものではない殺人であるという点で異質であり、価値観の「底が抜けた」社会での事件といわざる得ない。

 

~荒み~

 荒んだ日常生活に追い込まれた青年。

大阪府池田小学校事件:死にたかったが自殺できず、殺人によって「処刑」を願っ                         た者の犯行。

秋葉原事件:解雇され、展望が全く持てなかった契約社員による自暴自棄的な犯行。

 

~根ぐされ~

 いつのまにか根ぐされした精神状況に追い込まれ犯罪に及ぶ。

●寝屋川事件:弱者への暴虐に向かう。根ぐされした自分に、少年・少女を巻き込み凶行。 

●相模原老人施設:弱者(知的障がいのある高齢者)の排除を妄想し殺害。

 

 これらの「クライム」の根源にある「スィン」は、すべてをモノとしか見ない消費資本主義と国の先導する戦争前夜のような価値観の底が抜けた社会状況に起因する。それでも皆は苦悩しつつも自己言及し踏みとどまっている。

 だが、犯行に及んだ者は、潜在する「スィン」に苦悩が共振し悩乱のジレンマをスルーまたは超えてしまった。個のニヒリズムの出口が自己言及に向かわずに、無縁の他者(弱者)への「攻撃」に向う。社会的に排除また抑圧され、「非正規」の労働形態がそのまま生きるうでの「非正規」として浸潤してしまったのだ。

 

 

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   複数者の殺人の根本には、大きくは「荒み」と「根ぐされ」があるが、この二つには違いがある。

 

 

 

〇荒みによる犯行は、社会経済情況の矛盾や不条理から「投げやり」になって他者を巻き込んでの自死への願望が垣間見られる。荒みの自覚はある。

〇根ぐされによる犯行には、他者を巻き込んでの自死願望はみられず、知らず知らずのうちに自己に刷り込まれた妄想が弱者の抹殺、排除に繋がっている。行為を隠匿しようとする傾向も見られる。

 これらの相違は一概には言えない。ただし、行為までの過程で、上記の二つは相互に絡み合って進展する。

 

 なお、荒み、根ぐされが、無意識であるか意識されているかにかかわらず、それらが個人の心のなかだけでなく社会(世間)のなかにもあること、その根本をたどれば社会や国家の「スィン」と、個人の荒みと根ぐされの「根茎」が同質のものであることこそ注視する必要がある

 

 荒みと根ぐされについて、辺見の言葉に耳を傾けてみよう。

~荒み~

 「いまわれわれが立っている精神的な足場には、「無意識の荒み」があるとおもう。ぼくは、その無意識の荒みというものを、もっと摘出して見ておきたいのです。人間を部品化してお金儲けをする少数の人間たちと、それができない絶対多数の人間たちとのあいだに、途方もない開きがでてくることを当たり前とする社会のなかで起きてきた、社会の全域に進んだ、あるいはわれわれの体内に広がってしまった無意識の荒みというものは、いったいなにを意味するのか。自分でもくりかえし考えるのですが、なかなかわからない。でも、まちがいなくある。

 『美と破局 辺見庸コレクション3 』毎日新聞社、2009年86ページ。

 

 「テレビCMのようなことばの嘘を、それと知って許すのです。それも荒みだとおもうのです。ことばが表意しないというか、ことばが表意するものがかつてとまったくちがっている。「エコ」や「〜にやさしい」ということばもそうですが、じつはモノを売るとか別のインテンションがある。それは、流麗であり、円滑であり、快適であるかもしれないけれども、どこかに荒みがある。そのことを、じつはみんな知っている。そして、それを知ったうえで人間関係を営んでいる。ここに、われわれ個々人がもつ荒みの深さがある気がします。

『同上書』毎日新聞社、2009年、87ページ。

 

 ~根腐れ

 「実際には、それ以前からNHKの報道は自主規制を超えてほとんど官報化している。地方紙をふくめた主要メディアは、メディアによる人権侵害を自分たちでチェックしていくという対策を講じていますが、その委員には「人権救済機関」でメディア規制を考えるような人たちも入っている。どうしようもない。自己規制というのは若い記者たちの精神にも蔓延していて、ジャーナリズムの根本のところが、いまや根腐れしつつあると僕は感じています。

『単独発言 99年の反動からアフガン報復戦争まで』角川書店、2001年。のち角川文庫、(『単独発言 私はブッシュの敵である』2003年)、150ぺージ。 

 

 

  「労働力市場としての山谷より、いまの山谷のほうがおもしろいんですね。いまは、病んだ人の森です。私自身がちょっと現実の風景からなぎ倒されるものを感じるんです。人間が倒木のように見えます。いま山谷にホームレスは千人くらいいて、どんどん増え続けています。見ていますと、彼らの肉体的、精神的な根腐れの仕方にはすごいものがあると思うのです。いっぽう私はどこかで彼らに対する親近感というか、彼らに近いものを自分に感じています。すなわち、私も根腐れしている、と。戦後五十余年の時間がつくってきた負の部分がほんとに露骨に出ているという感じがするわけですね。消費資本主義が無感動に排泄してきたものですね。それから身体としてのホームレスたちがまた興味深いのです。

 『夜と女と毛沢東吉本隆明辺見庸文藝春秋、1997年。のち文春文庫、211ページ。

 

 「私は山谷に行く以前は都心で暮らしていましたが、そこには果たして根腐れはないのか。この消費資本主義の中で根腐れがないかというと、隠蔽しているだけで、地下茎部はもっとひどいかもしれない。少なくとも私は、きんきらきんのビルから出てくるスーツ姿の男女にいとおしさを感じたことはありません。いま、健全に見せかけているものって、すべていかがわしいと思います。

 『同上書』217ページ。

 

 

 「有事法制教育基本法改定、奉仕活動、愛国教育は誰が見たって密接な関連があるし、戦後最大の教育反動化が訪れているのに、日教組本部には危機感が見受けられない。有事法制に反対するどころか、事実上裏から支えるようなことをしている連合中央の荒廃とともに、日教組中央の背理というか不可解な動きはもっともっと広く論じられていい。メディアの病理だけでなく、闘う主体の側に理念のなし崩し的な放棄と精神の根腐れが進行している事実をもはや隠すべきではないと思います。

 対談 『新 私たちはどのような時代に生きているのか― 1999から2003へ』辺見庸高橋哲哉岩波書店、2002年、21ページ。