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辺見庸 研究 ~内宇宙への旅~

辺見庸の発言は、ときに「荒れ球」や「魔球」もあるが、「剛速球」が身上である。その根源にある思考とは何か。

26.悩乱

 悩みの種が芽をふき、それが大きくなった時点ではっきりと悩みとして意識される。ほとんどの悩みはその前に何らかの出口が見いだされ、小さくなりやがて消えてしまうが、忘れられない悩みもある。

「精神の糸に、過ぎ去った寂寞の時をつないでおいたとて、何になろう。私としてはむしろ、それが完全に忘れられないのが苦しいのである」と魯迅は言う。

 

 悩乱とはそのような悩みが高じ意識の乱調をきたす状態である。人が一時的に悩乱状態に陥ることは特別なことではない。だが悩乱がおさまらず、さらにひどい状態になると、狂の前兆を呈するようになる。

 認知症ロボトミー手術を受けると悩む能力が失われ、躁病患者も躁状態では悩んでいないように思われる。これらを別にすれば人は悩む。悩まない人間なんていない。欲求、価値観、意思疎通、これらに齟齬が生じそれを意識化すると悩みの種になるのだ。

『若きウェルテルの悩み』(ゲーテ著)を青年たちが愛読し、今も多くの人に読まれている。いつの世の青年にもこの種の悩みはあるということなのか。最近では、『悩む力』(姜尚中著)というタイトルの本がベストセラーになった。「自分でこれだと確信できるものが得られるまで悩みつづける」「悩むことを経てこそ、恐いものがなくなる」。

 

 実際は、それらを凌駕する悩みが人を襲う。悩む力を押しつぶす。悩む力が何かに資するとすれば、それはそれだけの悩みであり、そこには、一生かけてまたは死ぬほどの苦痛と絶望が伴わない悩みだったのだ。悩乱が精神の成長に資することなどない、そんなことを考える余裕などないのが悩乱である。悩みの底が空虚であることを感得した瞬間、濁流や死臭が流入し悩乱するのである。

 

 ところが、たまたま死ぬほどの苦痛と絶望寸前の悩乱であっても、九死に一生をえたならば、精神の地下茎が根太くなっていることに気づくであろう。気づかなくても、精神の地下層に熱源が蓄えられているはずである。

 

 空無が、すなわち虚しいもの、無いもの、nobody nothingが、じつのところ、われわれを支配しているのではないかと。それほど怖いことはありません.しかし、われわれの精神というのは、これはもう物故した作家、高橋和巳が書いた言葉ですけれども、「精神は本来、空虚を厭うものだ」といいます。精神は本来、空虚を厭うものである。そうです。ここに、ぼくは「悶え」の、われわれの「悩乱」の原因がなければならないし、そうであるべきだと考えます。精神は、われわれの心は本来、空虚を嫌うものなのだと。空虚を厭うがゆえに自省し、内省するものだと。しかしながら、残念ながら、われわれはほぼ、全面的に空無、空虚というものに支配されているような気がするのです。

 『いま語りえぬことのために―死刑と新しいファシズム毎日新聞社、2013年、68ページ。

 

 

 彼が悩乱の末に口走った言葉をいまぼんやり想い出していた。あのクリスチャンの父は「日常のだな日常の皮を一枚ベロリと剥げば、大抵の人間の躰はだな、ち、ち、血まみれなんだよ」といったのだった。これが何を意味するかは実はよくわからない。ただ、聴いていたその場に、にわかに血がにおいたち、氷で胸を剔られるような思いをしたことは事実だ。後知恵かもしれないが、〈ずいぶん近いのだな〉と私は感じている。何に近いのか。柿の木の枝である日突然、娘が首を吊るような風景に、戦争を含むすべての災厄の場所にわれわれが普段立つ位置が、だ。

 『自分自身への審問』毎日新聞社、2006年、174ページ。

 

 

 彼もまた「物言うな、かさねてきた徒労のかずをかぞえるな」のような言葉を反芻し、過去を断ち切ろうとしていたでしょうか。国家を憎み人を恨み運命を呪っていたでしょうか。それとも、悩乱と苦痛がついに彼を狂わせ、飢えた獣の思考にまで自分を貶めていたのでしょうか。ぼくは彼のように地面を這いずる自分をしばしば想像したものです。だがいつからでしょう、いつの間にか主体が入れ替わり、彼の側から昔を回顧したのは。そして一閃の錯覚がぼくの脳裏をあの物乞いのそれに替えたのでした。地べたを這う物乞いとしてぼくが感じえたものとは筆舌に尽くしがたい苦痛や屈辱ではなく、まったく意外にも、寒天菓子のような無邪気、無憂なのでした。実際のほどはわかりません。悩乱の果ての無邪気、無憂ということもありえるでしょうし。

 『同上書』、70ページ。