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辺見庸 研究 ~内宇宙への旅~

辺見庸の発言は、ときに「荒れ球」や「魔球」もあるが、「剛速球」が身上である。その根源にある思考とは何か。

28.失見当識

 大学などでは講義が開始される前にガイダンスとかオリエンテーションが行われる。それによって、履修科目の「目的・概要・到達目標・授業スケジュール」などを受講生がおおむね知ることができる。講義が興味がもてそうか、役に立ちそうかといったことも判断材料にする。必修科目も含め、科目の効果的・効率的な履修の見当識に役立つのがオリエンテーションだ。とは言え実際は、講義時間帯は履修しやすいか、出席義務はどのくらい厳しいかとか、単位はとれそうかといった情報を友人などから入手して履修届けを出すかを決める。ただし、卒業のための単位取得が大幅に不足している学生にとっては、贅沢は言えない。

 見当をつけてことに臨んでも現実は当たり外れがある。また大局をみて着手は小局で最善手を打てればよいが、局面と相手の着手によっても失見当識の状態にしばしば陥る。極大世界と極小(極私)世界との一体化や、それらが接合・整合した生き方など誰ができているのだろうか。実態は闇試合なのだ。遂行的に物事を進めるしかないというのが常態である。

 塀の向こう側とこちら側と、天国と地獄と、生と死、希望と絶望、愛と憎しみ、板子一枚下は地獄である。

 行路は耐用情報と情況におけるエントロピーの減少策を片手に「思い」の具現を進めるしかない。

 今日ただいまの破局とはじつのところ、資本主義経済のそれだけでなく、私たち総員の内面におけるかつてないディスオリエンテーションと、深まる一方の荒みの状態を言うのだと私は確信している。

 『しのびよる破局 生体の悲鳴が聞こえるか』大月書店、2009年。のち角川文庫、2010年、163ページ。

 

 われわれは生きているのだと勘違いしているだけで、本当は死んでいるのかも知れません。そのくらい見当識が危うくなっている。 

 『国家、人間あるいは狂気についてのノート―辺見庸コレクション4 』毎日新聞社、2013年、146ページ。

 

 かくして私たちは狂っている。そんな大それたことはだれも大声ではいったことがない。だから、そっと小声でいわなくてはならない。私たちはじつは狂れているのである。「私たち」といわれるのが迷惑なら、いいなおそう。この私は、かなり狂っている。自信をもって正気とはいいかねるのだ。私のばあい、傾向は、つらつらおもうに、統合失調よりも〃失見当識というのに近いようだ。見当識は、時間や場所など現在自身がおかれている状態をしっかり認知する能力で、いわば、オリエンテーションであり、体内の羅針盤みたいなもの。それをなくしたり、機能不全におちいったりすることが失見当識(ディスオリェンテーション)である。(中略)

 くりかえすが、パンデミックといい、大恐慌といい、破局といいながら、私たちはその内実を、らちもない政治や経済生活への影響以上には一般にさして危倶していない。とりわけ内面の深み、想念の底流、無意識の荒みとのかかわりについては、まったくといってよいほど内観してはいない。その意味で、いささか乱雑な構成になってしまった本書の、せめてどこか一個所でも、ことばが読者の内面の湖底におりていくことを私はねがっている。

『しのびよる破局 生体の悲鳴が聞こえるか』大月書店、2009年、161、163-164ページ。