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辺見庸 研究 ~内宇宙への旅~

辺見庸の発言は、ときに「荒れ球」や「魔球」もあるが、「剛速球」が身上である。その根源にある思考とは何か。

30.谷川俊太郎という「詩人」

 谷川俊太郎という世渡り上手な詩人がいる。詩人というよりは詩の「商品企画・販売業者」である。

 彼は自分が「かわいい」といわれて、たいへんご満悦である。そしてこう言い放つ。

「男は愛嬌・女は度胸という世界に住もうと思った(笑い)。現代詩は尊敬される必要はない、うければよい、かわいければいい、仕事は芸術だなんて思わない、受注産業である、わたしの詩はつねに資本主義社会のなかでサイクルしているわけだから、これは商品だと思い下(ママ)がらなければ偽善であるということですね

「そりゃ、おれだって五〇何年間」市場を開拓してさ、もう営々として商品にすべく頑張ってきたんですからね」(『日本語を生きる』谷川俊太郎高橋源一郎平田俊子岩波書店、243ページ)。

  資本主義はすべてを商品化するが、谷川俊太郎はそれを「詩人」として、その急先鋒、市場開拓者として行ってきた、というわけだ。谷川俊太郎が商品化する言葉は、効用が価値のすべてとなる。期待効用を含めて、誰からでも受注する詩人。受注生産。安易な生産。

 詩は少なくとも見込み生産、市場という暗闇への命懸けの投企の産物ではなかったのか。詩人は、本来、非市場での創造者ではないのか。

 だが、谷川俊太郎は、あくまでも詩を受注生産する。人々を、欺し、苦しめ、凌辱し、殺戮することになっても詩を発注者のために書く。

  結局表現者たちみんなでやっているとしか思えないな。まあ職業詩人の大御所が生命保険のコマーシャル(詩?)を書いているような国だからね。でもだれもそれを言わない。谷川俊太郎のやったことは、「戦争詩と同様あるいはそれ以上に罪深い」面もあるとぼくは思う。生命保険会社に職業詩人が文を 鬻ぐということ。そのことの問題を一応、措くとしてもだね、谷川が金で売ったこのひどい言葉(詩?)がなんらの議論もひきおこさない文芸の世界って、ナマコの糞以下じゃないかね。

 「保険にはダイヤモンドの輝きもなければ、/パソコンの便利さもありません。/けれど目に見えぬこの商品には、/人間の血が通っています。/人間の未来への切ない望みが/こめられています」。

 これでいいというのなら、詩の世界は解散したほうがいい。

 『死と滅亡のパンセ』毎日新聞社、2012年、80-81ページ。

  保険は、金融商品の一つとして、人々の不安に付け込み「<脅し>と<安心>のマーケティング」によって利潤を獲得する。徴収した莫大な保険料は、高度な保険数理を駆使し損失の出ないようにするだけでなく、保険料を活用して投資運用によって「浮利」を得る仕組みが確立している。

 資本増殖のために、事故や寿命が利用されている。そこでは人間の血が通っていないし、人間の未来への切ない望みもない。保険会社の甘言によって保険の商品実体が「コーティング」され、または「隠ぺい」されているのだ。

 

谷川俊太郎の文章に「たんか」という不思議なひとくさりがある。「詩ってなんだろう』という本のなかに、短歌の解説の体裁でさりげなく収められている。はじめて眼にしたとき、半透明の灰汁のようなものを感じ、考えこんだ。なんだか油断がならないのである。一部を紹介すれば、ざっとこんな調子である。

 あきののに さきたるはなを ゆびおりて

 かきかぞうれば ななくさのはな

                 山上憶良

 わがきみは ちよにやちよに さざれいしの

 いわおとなりて こけのむすまで

 

 かすみたつながきはるひをこどもらと

 てまりつきつつこのひくらしつ

                  良寛

 「君が代」にひっかけて第二首についていいつのりたいから引用したのではない。「こえにだしてよんでみると、いみはよくわからなくても、きもちがいい」というのが気持ち悪いので、引いてみたのである。思いすごしであろうか、私にはこれが脅しのように聞こえてくる。結構ドスのきいた脅しに。実際、山上憶良良寛の間に、「君が代」の原歌といわれる『古今和歌集」の「賀歌」にある歌をそっと配列したのが、詩人のいかなる作意からきたのかはわからない。

『永遠の不服従のために』毎日新聞社、2002年。のち講談社文庫、2005年、159-160ページ。

 

 見た眼は谷川俊太郎の詩のように優しく、何気ないのだけれど、この国のどの領域よりも早く不可視の戦争構造を完成しつつあるのが、教育現場といえるかもしれない。

 『永遠の不服従のために』毎日新聞社、2002年。のち講談社文庫、2005年、163ページ。