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辺見庸 研究 ~内宇宙への旅~

辺見庸の発言は、ときに「荒れ球」や「魔球」もあるが、「剛速球」が身上である。その根源にある思考とは何か。

31.消費資本主義批判

 生産能力の飛躍的な発展と資本蓄積による独占及びそれを背景にしたグローバリズムという名の侵略主義が世界経済にはびこった。生産体制の問題が問われ、その変革を試みた計画経済(実質は国家社会主義であったが)が、20世紀末に相次いで破綻すると、旧来の資本主義は勢いづいた。

 そして新自由主義のもと一層の差異を求めて市場経済を推進した。人々は市場経済のなかに囲い込まれ資本に「餌付け」され「養殖」されて利潤増大化のための手段になっていった。消費者はたえず刺激され、商品に呪縛され欲求は肥大化していく。資本はモノ以外のサービスや情報商品、金融商品といった商品に消費の対象を広げ、さらなる利潤を求めている。

 現代の資本主義においては「消費」が注目される。国民所得は基本的に消費と投資から成り立っているが、先進国ではGDPの6割程度を消費(個人消費)が占めている。「消費」の動向のインパクトは産業革命後の19世紀から20世紀半ばまでの「生産関係構造」重視の経済とは比べものにならないくらい大きくなっているのである。

 「消費資本主義」なる新用語が生まれ、それは暗にマルクス経済学の批判を意味している。使用価値・交換価値の二面性を否定して価値を市場価値として捉える。収奪ないし搾取というマルクス経済学での概念は書籍のなかに埋没し、恐慌の必然性や階級闘争による革命の展望も姿を消した。

 では、近代経済学、新古典経済学、新自由主義での展望はどうなのかと言えば、経済の活力と成長は謳われるが、均衡や適正再配分は等閑にされたままである。

 そのことが、価値感の底が抜けてしまった原因の一つになっている。 

 消費者という概念はルンペン・プロレタリアートから大資本家までを包含できる非階級的な無限概念で、じつにくせ者です。ここにポイントの一つがある。つまり敵と味方の関係性をもっぱら資本の側に立って解消してしまったのは、資本の側の強権行使というより、消費者意識を注入された労働者であり、その仲立ちをしたのが高度資本主義における意識収奪メカニズムであるマスメディアだったのです。この重大局面に戦後民主主義というやつはまったく魯鈍であり、無頓着でした。愚かであるがゆえに穏当に対処しようとしたというより、戦後民主主義は全般的に「超階級」概念の導入に手を貸したともいえる。なぜなら、戦後民主主義はその出自にうっすらともっていた階級的気分をいつの間にか忘れ、「超階級」的民主主義の気分に変質していたからです。また、意識収奪機構であるマスメディアの担い手の多くが戦後民主主義という気分を肯定的に受け容れていたことも注目すべきです。記者らも全体的メカニズムのなかで意識を収奪され、「超階級」的意識というか無意識の判断の過程で大資本や支配する側にくみするようになっていったのです。

『いま、抗暴のときに』講談社文庫、2005年、198―199ページ。

 

 高度資本主義とは、人間生体にとって、外在するシステムであると同時に、内在的な、心的メカニズムにまでなってしまっていることにぼくは心づくのです。われわれは動脈だけでなく、毛細血管までこのメカニズムに組みこまれている可能性がある。(中略)

 人は市民であるよりもただただ市場活性化のために狂躁的に消費する、消費させられる奇怪な生命体に変えられていきました。モノにせよ金融にせよ人の生活のためにあるべきなのに、逆立ちして、人はただ市場のため資本のためにのみ生かされる存在にされた。所得が不当に不平等なのは問題にもされない。正社員と契約社員派遣社員の不平等も当たり前だと考える。人間を機械の部品化し、消費マシーンとする発想によって世界全体がこれまで動いてきた。〃繁栄″は、じつはそういう倒錯的基礎の上になりたっていた。それは、たんに経済的な問題ではない。『しのびよる破局 生体の悲鳴が聞こえるか』大月書店、2009年、45-46ページ。

 

 企業の攻勢は留まるところなく続けられる。新しいマーケティング戦略の「有効期限」は短縮化し、企業は消費者に対して「浪費の愚かさ」への意識を封じ込めるべく、サイモンの言う限定合理性、すなわち「合理的であろうと意図されてはいるが、かぎられた程度でしか合理的ではありえないこと」を利用して、消費者行動における合理性と情緒性(REC)の関係での情緒性の肥大化(合理性の情緒化を含む)を図る。一層の需要刺激策と需要創造策が展開される。流通チャネルも直接・間接の経路のいずれもが寡占化とリゾーム状チャネルに収斂していく。

 その結果、消費者は常に企業による「商品世界への誘い」を通じて企業による依存効果の対象へと深く組込まれていく。体制は人間を労働力商品として操るとともに、もう一方で消費器官として扱うのである。大衆はそれに「利己」で対処するしかないという位置に追い込まれるのである。