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辺見庸 研究 ~内宇宙への旅~

辺見庸の発言は、ときに「荒れ球」や「魔球」もあるが、「剛速球」が身上である。その根源にある思考とは何か。

32.マーケティング攻勢と消費態様

 消費者は、管理社会化が広範囲に進む現代社会において、見せびらかし、自己満足、射幸、不定愁訴、飢餓感、ストレス発散、癒し消費等へと走る。1970年代に唱えられた電通:戦略十訓に基づく露骨なマーケティングは影を潜めたものの、浪費を作り出す人々としての企業による強引かつ巧妙な手口は後を絶たない。商品・役務の購買・消費にかかる企業が発信する情報(広告・表示・その他)を、消費者は受信・処理・認識・活用・消費するが、企業の情報発信量は大量化し、巧妙化し、広範囲に及び、いっそうの依存効果を狙う。

 消費者行動は、実体に即した基礎的価値を見極める「合理的な購買による効用充足(満足)」から、「主観的・実感的満足」へ、さらには「期待効用の満足」へと浮遊し、又は反発しながら変化している。

 消費はやがて疲弊し始める。刺激策も消費拡大の効果が薄らいでくるようになる。コンシューマリズムという消費者主義や嫌消費、ミニマリズム、エコ消費、エシカル消費などが徐々に広がりを見せるようになった。消費者革命という語も見られるようになった。

 エネルギーを原発に依存する怖さは原発事故によって思い知らされた。労働力価格や資源、情報の差異(格差)を利潤の源泉とするという資本主義の本質の一面も疑問視されるようになった。

 それでも消費は追い立てられ駆り立てられて消費者は肥大化した「消費する器官」であることから脱することができない。

 その結果、消費者のライフスタイル又では、大量消費、ブランド志向、浪費(消尽)、一点豪華主義、衒示的・顕示的消費、価格重視志向、本物志向、節約志向、ハレ&ケ・メリハリ消費、コト消費、LOHAS志向、エコ消費、エシカル消費、ご褒美消費、プチ贅沢、ミニマリズム、ダウンシフト消費、プレミアム消費、付き合い消費、健康志向消費、ストレス解消消費、癒し消費といった多彩な消費形態が見受けられるようになった。このような状況からすれば消費者被害が複雑多岐にわたって生じるのは当然のことであろう。

 企業は、消費者が商品・役務等を合理的に選択し好んで購買・消費できるようにさまざまな情報を告知・発信し、消費者の警戒心を緩め、意図どおりの購買・消費を促す。企業はマーケティングをはじめ多様な方策を講じ、無機質で増殖志向の強い資本の活動によって生身の人間を市場経済に取り込んでいくのである。

 意識産業(マスメディアなど)は操作、習慣化、自主規制化等によって反逆の目を摘んでいく。多様性の尊重という一般化、普遍化はそれに追い打ちをかけ、反逆する消費者を懐柔する。

 ところが、有効需要の増大には限界があり、活路を公共投資、情報商品、金融商品さらには軍需に見いだしていかざるを得なくなっている。消費資本主義経済の先の先にあるのはやはり戦争とそれによる全的滅亡しかないのか。

この世界では資本という「虚」が、道義や公正、誠実といった「実」の価値をせせら笑い、泥足で踏みにじっている。そのような倒錯的世界にまっとうな情理などそだつわけがないだろう。なかんずく、実需がないのにただ金もうけのためにのみ各国の実体経済を食いあらし、結果、億万の貧者と破産者を生んでいる投機ファンドの暴力。それこそが世界規模の通り魔ではないのか」。

『水の透視画法』集英社文庫、2013年、49ページ。

  蜘蛛の巣のように巧妙に仕組まれ張り巡らされた商品経済体系という資本主義のおとり装置。一定の商品は生きていく上で必要だが、それに呪縛されフェティシズムに陥っては個体が空しくなるばかりだ。資本、金銭、商品に対して「巣を自由に歩く蜘蛛」のように対処する。

 超階級層であるとされてきた消費者に生活者、生体としての面から変革が迫られている。

 

消費資本主義の縊路からのブレイクスル

 消費革命は消費行動の変革だけではなく、生産革命につながるものである。消費経済の根にそれがあることを個々の消費者が眼をこらしてみつめる。そして行動に移す。

個々の消費者がもつ企業に対する生殺与奪権を行使という不買行動もそのひとつである。この点について、吉本隆明辺見庸との対談で、「消費者が買うか買わないかで国家も企業も転覆できる」と発言している。(『夜と女と毛沢東吉本隆明辺見庸、文春文庫、2000年、243ページ)。  

 また吉本は「アフリカ的原型を掘り起こせば消費資本主義に希望が見えてくる」とも言っている。(『同上書』257ページ)。 

だが、現実としてはそのような状況は見えてこない。なぜか。その理由は、現代の消費者の消費購買の慣性(惰性)と、マーケティング攻勢による企業への堅牢なまでの依存性による。

 一方、辺見庸は「資本主義はこの世のありとあらゆる異なった[質]を、お金という同質の[量]に自動転換していく装置」であるとして厳しく批判している。そして商品経済については、商品呪縛または商品フェティシズムの問題として取り上げている。ボードリアールの考えを引用し、消費の現代的なあり方に疑問を呈している。その背景には、彼が特派員として世界を歩き、貧困や飢餓に苦しむ多くの人びとをつぶさに見てきた体験がある。そこから企業主導の消費資本主義、消費情報資本主義に批判的眼差しを向ける。

 消費資本主義は、産業・金融資本と一体となった意識産業と消費者との「意味の戦争」に入っている。

 これはエンッェンスベルガーの考えですが、資本主義は本源的蓄積の段階を終えると、「非物質的搾取」つまり人びとの意識の収奪に入るといいます。七○年代中盤から八○年代はそんな時代だったともいえるのではないでしょうか。その時代には、階級的観点というか資本対労働という図式が後退して、「消費者」という「超階級」的概念が強力に導入されました。なにによって導入されたかというと、もっぱら意識産業すなわちマスメディアとそれに同伴する戦後民主主義的な学者をふくむ知識人たちによってです。これが「市民」幻想と二重化し、資本対労働の観点を徐々に溶解してしまった。消費者という概念はルンペン・プロレタリアートから大資本家までを包含できる非階級的な無限概念で、じつにくせ者です。ここにポイントの一つがある。つまり敵と味方の関係性をもっぱら資本の側に立って解消してしまったのは、資本の側の強権行使というより、消費者意識を注入された労働者であり、その仲立ちをしたのが高度資本主義における意識収奪メカニズムであるマスメディアだったのです。

『いま、抗暴のときに』毎日新聞社、2003年、198ページ。

  しかし、辺見の考えは残念ながら記述的な説明を超えておらず、「収奪」と個(消費者)との「対峙」と「ブレイクスルー」の内容は不分明である。

 それを解明し消費行動や消費の意味を問い直す。行動としては生体として個対知としての個々の消費者が個対知のリゾームを形成し対峙するのである。詳しくは次項で述べたい。