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辺見庸 研究 ~内宇宙への旅~

辺見庸の発言は、ときに「荒れ球」や「魔球」もあるが、「剛速球」が身上である。その根源にある思考とは何か。

34.憲法改定の前に「アジア歴史会議」を

 先人達の侵略戦争の罪業を不問にし、猛省することもなく、その記憶(記録も含め)の抹殺または「改ざん」をしている。「孫子の代までも謝罪の宿命を負わせない」と言っても、侵略され殺されたアジア2千万人の孫子たちは歴史の記憶を決して忘れはしない。

 近年、保守化傾向が強まり、思想・政治の面から「右翼がえり」して、憲法を改定しようとしている。事前に「解釈憲法」によって現憲法を蔑にし、マスメディアを利用し虎視眈々と工作している。このような状況の伏線は、かなり以前から敷かれてきたことは大方の指摘するところである。自衛隊創設、日米安保国連軍への参加、PKO、そして集団的自衛権容認等である。これらはすべて憲法に関わることであり、違憲との指摘の声も多かったところである。

 かつて日本が侵略した中国や北朝鮮が今や日本に敵対し軍事攻勢をかけてくると喧伝し、「ショックドクトリン」を駆使し愚民化政策を講じ続けている。歴史に学ぶことや精力的な外交努力が等閑にされている。アジア諸国と歴史の共同学習をする真摯さがほしい。侵略国・敗戦国である日本には必要不可欠の課題であると思う。そのための予算と時間と努力を、憲法改定勢力はどれほど投じたというのか。そのことがまず問われるべきであって、ファシズムと軍拡に傾斜している場合ではない。東京オリンピック開催のための時間と予算を、即刻、各国に呼び掛けて「アジア歴史会議」の開催(内閣府文科省が主催)とその恒常化を実現せよと言いたい。

  「誰に銃を向けるのか」との問いは、憲法9条の改悪によって合法的な侵略戦争への加担と国内反対勢力者への圧殺につながることへの辛辣な警告である。右翼反動勢力の動きを傍観していることは、結果、「そんなはずではなかった」と後悔するだけである。自らと家族・友人・知人の生命・身体・財産が侵されることになるのが必至であることを銘記しなければならない。

 近時の憲法改悪の動きに辺見庸の発言を、彼の著作からみてみよう。そこには、まさに根源的思索者、個体知の具現者としての辺見庸の一面が現れている。

 ここで、国家を永遠の災厄とする考えにくみするのならば、なぜ、国家存立の基本的条を定めた根本法である憲法を受容するのか、という問いに再び戻る。私の正直な答えはこうである。それは、日本の現行憲法の根幹が、言葉のもっともよい意味において、すぐれて「反国家的」だからだ。国家の根本法が反国家的とは、なんとすばらしいことであろうか。国家の最高法規が自身に制約どころか掣肘をくわえている。未来の暴走を予感してあらかじめみずからを厳しく拘束している。国家の基本法が国家の幻想を戒めている。私はそのように感じるからこそ、この憲法を、第一章をはじめとしていくつかの重大な暇疵があるにもかかわらず、受け容れる。この国の憲法小泉首相らがいかにねじ曲げ、いたぶろうとも、反国家的であり、少なくとも反国家主義的であることはまちがいない」。

『抵抗論―国家からの自由へ』毎日新聞社、2004年。のち講談社文庫、2005年、62ページ。

 

 現行憲法の球状を「理想」とするか「規範」とするかとの問題提起は、「現実」の容認によって後者の選択に誘導するものである。そこでの「現実」が歴史認識を軽視した軍拡のための牽強付会の説であることを見抜かなければならない。

 私はさほどの憲法称賛者ではない。なにしろ、現行憲法のしょっぱな(第一章天皇)から反対なのだから。第一章は憲法全体の文脈と憲法の存在意義に著しく矛盾すると考えている。

『抵抗論―国家からの自由へ』毎日新聞社、2004年、44-45ページ。

 

 共産党憲法草案は前文で高らかにうたうのである。「天皇制はそれがどんな形をとろうとも、人民の民主主義体制とは絶対に相容れない.天皇制の廃止、寄生地主的土地所有制の廃絶と財閥的独占資本の解体、基本的人権の確立、人民の政治的自由の保障と人民の経済的福祉の擁護―これらに基調をおく本憲法こそ、日本人民の民主主義的発展と幸福の真の保障となるものである」。そして、共産党憲法草案第一条はいう。「日本国は人民共和制国家である」。第五条では「日本人民共和国はすべての平和愛好諸国と緊密に協力し、民主主義的国際平和機構に参加し、どんな侵略戦争をも支持せず、またこれに参加しない」という。草案はしかし、戦争放棄、戦力不保持、交戦権否定をとくに明文化していない。同草案は日本共産党中央委員会付属の社会科学研究所編の「憲法の原点」(新日本出版社)で紹介されているのだが、戦力不保持などが明記されていないことについては、山口富男氏が「ポツダム宣言によって軍事力が解体されているもとで、『草案』は、日本が軍事力をもつこと自体を想定していなかったのである」と解説している。死刑に関する規定は第十九条にあり、文言は単に「死刑はこれを廃止する」だけだが、明快である』。

『同上書』72ページ。

 

 「この憲法では前文からすでにして「国家の輪郭」がほどよく融けている。それを私は好感する。さらに、善き反国家性の白眉は、いうまでもなく第九条である。「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」。「前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない」とは、一万回繰り返し読んでも、“大した決意だなあと感じ入るのである。(中略)

 世界の憲法史上はじめてのこの戦力不保持宣言は、とりもなおさず、国家概念の根本的改変を意味したのだと私は思う。国家に法則的に内在する戦争構造をみずから放棄するということは、当時の役人や民衆にそれだけの自覚があったか別にして、「国家による国家の否定」ともいえる。私は、そのことを、改憲論者やいわゆる自主憲法制定論者たちのように、欠陥とも屈辱ともとらえないし、経緯はどうあれ、じつに偉大な決定だったと考える。また、条文のどこを見ても、「国家緊急権」およびそれに類する規定がない」。

『同上書』65-66ページ。

 起こりえないと思っていたことが 実際、起こる。それが現実であり、歴史はそれを示している。辺見はそのことを「実時間で考えよ」と言っている。

 実際にはワイマール憲法は一九三三年の悪名高い「全権委任法」(「民族および国家の危難を除去するための法律この成立によって効力を失ってしまったのです。これは要注意です。ヒトラー政府に国会が立法権を委讓してしまったわけですから由々しい事態です。一九三三年にヒトラー内閣が成立するや、国会解散に踏みきり、総選挙を行いましたが、「突撃隊」が野党勢力の選挙活動を武力弾圧し、その選挙戦の終盤には国会議事堂放火事件が起きました。

『いま語りえぬことのために―死刑と新しいファシズム毎日新聞社、2013年、96-97ページ。