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辺見庸 研究 ~内宇宙への旅~

辺見庸の発言は、ときに「荒れ球」や「魔球」もあるが、「剛速球」が身上である。その根源にある思考とは何か。

36.罪についての仮説(その導出)

辺見庸の内宇宙:罪をめぐる思考~

 辺見庸の言説の幅は広い。あまりに幅広い対象と表現の多様さに読者が戸惑うほどである。

 政治問題や経済問題、哲学、文学・芸術に対して造詣が深く人間洞察が鋭い。評論はかなりラディカルである。これらの点が一般的な政治・経済評論家とは格段の違いとなって現れている。

 評論は、辺見が詩人、小説家、随筆家でもあるからといって観念的に走ることなくしっかりとした根拠にもとづいている。傍証・参照も的確である。新聞記者としての長年の経験がそこに生かされているといえよう。

 文壇や詩壇には一切属していない。そして生き方は権威主義とは頑固なまでに程遠い。

 日本における稀代の鋭刃な評論を展開している辺見庸の思想の構造はどうなっているのか、そしてその課題は何か。

 それを解く鍵を、ここでは「罪」の思想が根幹にあるとの仮説を立てる。

 辺見庸は自身の著作のなかで、人間として在ることの恥辱や、戦争責任、死刑制度、暴力、殺戮といったことを罪に関連させて頻繁に言及している。それらは一見、評論の中でモザイク状に組込まれているものの、実はリゾーム状に連繋しているのではないか。そしてラディカルな思考の核の一つになっているのではないか、そして、辺見庸研究のアプローチに不可欠なことではないかと考えたことがその理由である。

 

~罪またはスィン(罪)とクライム(犯罪)について~

 人間の罪深さとか、罪多き人間とかいうときの罪とは、犯罪の「根」に存在する度し難いものとの響きがある。

 不完全な存在(生物)として人間を、現実世界において考えるとき、どうしても罪が不可避のものとして浮かび上がってくる。では、罪とは何かからみてみよう。

  1. 罪と宗教・道徳

 仏教においては、罪または罪悪の受け取り方は、宗派によって、さらには罪の種類やその分類によって相違するものの、ほぼ共通していえるのは、罪は「性罪」と「遮罪」の「二罪」に区分されることである。

 「性罪」とは、英語ではcrimeに相当するもので「法律に反する行為」「法に背くこと」がこの第一の意味での「罪」を犯す行為とされる。殺生や他人の財産を侵したりする罪である。

 それに対して二番目の「遮罪」とは英語でsinと言い、「宗教・道徳上の罪」であり、戒め・規律(戒律)を破ることによる罪である。(参照:『望月仏教大辞典』)

 旧約聖書における罪についてみると、仏教とは異なる認識がなされている。

 罪は人間の「知」と不可分の関係にある。旧約聖書ではアダムとイヴの話として原罪が記されていて、これは、個々の人間の犯罪としてではなく、人間に普遍的な罪であると解されている。人間として生まれ、そして「知」を得たがために、罪を深く抱え込まなければならなくなったものである。

 新約聖書学者の田川建三は、そのような個々の人間を超えた、全人類を支配する、超越的な悪の力を指す「罪」について、次のように述べている。

「悪」ないし「罪」について、人間が何とかそういうものをなくそうと努力しても、どうも、自分の意思、自分たちの意思を超えた力が働いてしまっていて、自分の善意にもかかわらず、そういう力に支配されて、自分で気がつかないうちにすでに「悪」(その実際の中身は人によっていろいろ異なることを考えているにせよ)に加担してしまっている、という感覚である。これは、ある意味で、まっとうな、すぐれた感覚である。

田川建三キリスト教思想への招待』勁草書房、2004年、196―197ページ。

 田川は「罪」というのは、個々の人間が犯す行為のことではなく、その背景にあって、それをひきおこさせる悪魔的な力を指しているとする。新約聖書の中では、パウロに最もはっきり出てくる考え方であると記している。

 ただし、「それを神話的に表現してしまうと、もちろん、話がずれてしまう」「ともかく、一方で絶対者なる神を信じながら、他方でこういうことを考えるというのは、論理的には矛盾である」と述べている。これは、罪または悪が神話的世界で捉えられていることへの田川建三による宗教批判である。

 以上のように、罪と言っても基本的な点で「スィン」と「クライム」は異なっているが、クライムについては宗教や多くの見解においても比較的類似した認識がなされているものの、「スィン」については差がある。

 

2.辺見庸の見解 :スィン(罪業)とクライム(犯罪)

 そのようななか辺見庸は、その「スィン」と「クライム」について、現実問題との関わりを念頭におき、観念世界でのものとすることなく、彼独自の見解を示している。

 人間は発生当初から、非常に出来損ないの動物なのではないかというふうに考えるというのはどうでしょう。キリスト教では、人間を神と獣の中間に置いてますね。これは違うと思います。ここに、過剰に高い自己評価があるような気がするわけですね。そこから、実像と乖離した分だけのゆがみが社会に跳ね返ってきているような気がするんですね。」

(『新・屈せざる者たち』朝日新聞社、1998年、40ページ)。

 そのうえで、クライムついては諸説とほぼ同様の定義をしているものの、「スィン」については、仏教キリスト教における理解ではなく、とりわけキリスト教(とくにパウロ)での原罪(original sin)とは異なる認識をしている。「スィン」を現実世界の矛盾や不条理の「溶解」に援用させないとの姿勢が厳然とある。

 そのことは次の文章に表れている。

 罪業の在りかが語られなくなり、代わりに犯罪ばかりがじつにカラフル、劇的に描かれるようになったのは、いったいいつのころからなのだろうか。犯罪を報じ、語ることが、あたかも罪業を論じていることのように勘ちがいされるようになったのはいつからか。スィン(罪業)とクライム(犯罪)は、しかし、まったくの同義ではない。前者は、時代と法のいかんを問わず、絡み合い増殖する透明な菌糸のように目には見えず、後者は、主に時代と法のいかんによってのみ輪郭の大小が照らしだされる。

  犯罪は構成するけれども、それがかならずしも本質的な罪業とはいえないこともある。その逆、スィンではあるが、クライムとしては指弾されない状態。これは子細に見るなら私たちの身辺にしばしば生まれている。いや、一見してたわいもない私たちの日常とは、じつのところ、罪業の不可視の菌糸が刻々に綾(あや)なす、千態万状の模様のことなのかもしれない。罪業が底の暗部に沈澱した後の、上澄みの風景を日常というならば、スィンはその質が深ければ深いほど、平素には見えず、におわぬものだ。それはまた、構造が大きく、システマティクであればあるほど、つまり国家的規模であればあるほど、スィン本来の様態を隠し、背理の痛みを薄めるものではある。

 『言葉と死 辺見庸コレクション2 』毎日新聞社、2007年、101-102ページ。

 

 辺見の「スィン」に関する独自の見解の要諦は次の点である。

 「スィン」は時代と法のいかんを問わず、罪業の不可視の菌糸が綾(あや)なす深い罪業であり、それは「クライム」となって千態万状の様相を示すものである。よって「クライム」を追ったとて、その実相は決して見えてこない。

 それに関して、重要な指摘がなされる。

 「罪業が底の暗部に沈澱した後の、上澄みの風景を日常というならば、スィンはその質が深ければ深いほど、平素には見えず、におわぬものだ。それはまた、構造が大きく、システマティクであればあるほど、つまり国家的規模であればあるほど、スィン本来の様態を隠し、背理の痛みを薄めるものではある」。(『眼の探索』朝日新聞社、1998年、113ページ)。

 

 辺見自身は作品の中で「原罪」(イニシャル・スィン)という用語は用いていないが、それに近い概念として、「人間であるがゆえの恥辱」という概念を、プリーモ・レーヴィの言説から受け継ぎ、そしてジョルジョ・アガンベンからは「人間は、つねに人間的なもののこちら側か向こう側のどちらかにいる。人間とは中心にある閾であり、その閾を人間的なものの流れと非人間的なものの流れ(中略)がたえず通過する」との言葉に同意して、それらを人間の業としての罪、不完全な動物としての悪などを述べる際に使っている。

 以上のような認識が、辺見庸による人間理解(だけでなく)、政治・経済・社会そして国家への視座であり、彼の内宇宙の形成の機軸となっている。そのように理解したい。