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辺見庸 研究 ~内宇宙への旅~

辺見庸の発言は、ときに「荒れ球」や「魔球」もあるが、「剛速球」が身上である。その根源にある思考とは何か。

38.心ばえ

 辺見庸は「批判ばかりしている」「重苦しく暗い」「破局とか滅亡とかいう語が多く出てきて、未来志向に欠け、希望がもてなくなる」。そんな声が一部に聞かれる。

 それは率直な印象としては受容できないことではなく、全くの的外れでもない。辺見庸の鋭い感性と洞察力からすれば、この「腐った狂おしい時代情況」のなかで発言し表現していけば、どうしても鋭く批判せざるをえないのである。思想とは批判と不可分で、その意味で思想は批判そのものでもある。不誠実にそして安易に、現状肯定やポジティブシンキングなどできるわけがないのだから。相手の土俵に組み込まれる愚は犯さない。そのことは彼の著作物の全体を読み、味到できるようになれば理解できるであろう。

 とはいえ、彼が大切にする言葉のいくつかを、著作のなかに見いだすことができる。彼は全くのペシミストなんかではなく、本当は常人の数倍、数十倍「未来への希望、人間の神性」を切望している人ではないか。だからこそ現状の酷さの前で絶望的になってしまうのではないのか。

 こう言うと、彼はたぶん「そんなことはない。本当に絶望しているんだ。わかってないなあ」と言い返すにちがいない。「絶望している心情のほうが自分にとって自然なのだ。希望なんて持つとこんな世の中、結局狂うしかない」。そう付け加えることだろう。

 

 もうほとんど死語だけれども、そういう「陰徳」というものがかってあったし、おそらくいまもありえるのだとおもうのです。年越し派遣村にもたくさんの陰徳があったことはまちがいありません。そういうのを、これはすばらしい日本語ですが、「心ばえ」あるいは「よき心ばえ」といったりもする。日当たりのいい世界には、あるふりをしても、心ばえなんかあまりないのです。社会の片隅で本当に傷んでいる人のために、どうかしたら妻子にもあまりいわないで、自分の生活の一部を割いている人たちに、ぼくは百万言ことばを費やしてもかないません。「虚」と「実」でいえば、心ばえは「実」でしょう。

 『しのびよる破局 生体の悲鳴が聞こえるか』大月書店、2009年、106ページ。

 

 社会のほんの片隅で、だれにも見られもしていない、そういうところにしか本当は救いはないということをぼくは知っている。「陰徳あればかならず陽報あり」といいますが、ほんとうは「陰徳あれども陽報なし」なのです。報われたら陰徳にならない。「善人がその善ゆえに滅び、悪人がその悪ゆえに長らえることもある」と旧約聖書はいいます。誠実とはだから、自他とのほとんど自己破壊的で、自己犠牲的で永久的なたたかいからしか生まれないのではないでしょうか。

 『しのびよる破局 生体の悲鳴が聞こえるか』大月書店、2009年、108ページ。

 

 人の心ばえって稀に、請け売りの思想とやらが尻尾を巻いて逃げるほど深くて強いものがあると、割合単純に考えるようになりました。人は思想を愛するのではなく、自他の身体や内面を裏切らない心ばえをこそ安んじて愛し、自らの体内にもいつかそれが静かに芽生えてはこないかとまちつづけるのではないでしょうか。

 『自分自身への審問』毎日新聞社、2006年、35-36。 

 

 ともに食いながら話せば、果てしない殺しあいより、食う楽しみを取り戻すほうがいいと、胃袋で理解できやしないか。妄想をたくましくしていた。

 『もの食う人びと』角川文庫、1997年、65ページ。(初刊行は共同通信社、1994年)

 

 ぼくは徒労だらけの、まちがいだらけの人生でしたけれども、いろいろな場所で、人の誠実ということにはそれはそれは教えられました。それはぼくが他者からあたえられた、照りかえされた誠実の凄みです。死にゆく人に夜半につきそい、痰を取りつづける看護師の形相、痛がるがん患者の背中を何時間もさすりつづける人のまなざし……やさしさやいつくしみともちがう、もっと荘厳な眼の色の深さを見たことがあります。

 ぼくはひとりになったときに、顔が自然にふっと赤らむ、つまり赤面をすることがあるのです。赤面をするのは、多くを語らない彼女およびかれらにたいして自分が恥ずかしくなるからです。どんな宗教の持ち主であれ、どんな思想の持ち主であれ、あるいは無信仰、無思想の人であれ、よく語るぼくは恥ずかしいとおもうのです。かれらの心ばえというものに、高邁な思想も哲学も政治信条も勝てないとおもう。結局、ぼくは百万言積みあげたような複雑な理屈、行動のともなわない華麗な理屈よりも、その心ばえが圧倒するとおもうのです。(中略)

 そういう陰徳というか、額縁に入ることのない絵というか、人間の底光りするようなあるいは底光りとさえ気づかれないような徳というのか、そういうものがこれからこの世の中に見えてくるのかこないのか。自分はどうするのか。それはすごく、いつにもなく関心があります。他の人にいうことではなく、自分にいつも問うていくしかない。

『しのびよる破局 生体の悲鳴が聞こえるか』大月書店、2009年、108-109ページ。

 

 教訓などない。学ぶべき点がもしもあるとしたら、徹底した落伍者の眼の色と声質は、たいがいはほとんど堪えがたいほど下卑ているけれど、しかし、成功者や更生者たちのそれにくらべて、はるかに深い奥行きがあり、ときに神性さえおびるということなのだ。(註:チェット・ベーカーについて)

 『美と破局 辺見庸コレクション3』毎日新聞社、2009年、18-19ページ。