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辺見庸 研究 ~内宇宙への旅~

辺見庸の発言は、ときに「荒れ球」や「魔球」もあるが、「剛速球」が身上である。その根源にある思考とは何か。

39.陰熱

 「右の頬を打つ者に対しては、左の頬も向けてやるがよい(マタイ5・39)」。この新約聖書のなかの有名なせりふは、一般には、「そんな横暴な人には、反逆や報復するのではなく相手を許し愛の心でもって対処し、相手の愚かさを知らしめるのがよい」という解釈で広まった。または、抑圧される民衆は「右の頬をなぐられても、左の頬をなぐられても、おとなしく社会秩序に従っていなさいよ」との説教として聞かせたりしていた。そしてこれが、キリスト教の博愛主義、無抵抗主義として理解され布教の重要な柱となってきたのであった。

 ところが新約聖書学者の田川建三によれば、このセリフの意味はまったく異なる解釈となる。「そこには、抑圧された者のため息がある。右の頬をなぐられた時に、抵抗することもできずに黙って左の頬もむけなければならない者は、決してその事態を承認するわけにはいかない屈従の苦さが燃えたぎっている。しかもその感情を露骨に表現することすら、敢えてなしえない」という意味なのだと述べている。そして殴る主体は誰かが問題だとし「我々すべてが共通して、国家権力、社会秩序によってなぐられ続けている。(略)近代国家の場合は、多くは、真綿で首をしめる感じの圧迫なのであるが、本質的には同じことである」とも述べている(田川建三「秩序への屈従」『指』[237号]日本基督教団上原教会、1971年)。

 このことは、田川建三が、新約聖書という「文学」のなかでのイエスは、強者の横暴に対する弱者の「怒りや恨みを募らせるがそれに耐える」という「対峙」の実体について記しているのである。*1)

 弱者は歯向かうことなどできないだろう、反逆することなんてできるはずがないとの予断のもと、権力者や強者たちはたかをくくっているのである。一皮むけば強者も権力者も脆いものでしかなく、私(たち)との違いなんてないに等しいにもかかわらず、何の顔あって高圧的で横暴を極めているのか。

 横暴への反逆は、相手の一層の横暴を呼び、結局「死」を強いられかねない。右の頬を打たれれば左の頬をも向け、打つなら打てとの態度、陰熱のこもった怨念、それはすべての弱者の「恨」(「はん」)として引き継がれていく性質のものでもある。

 この陰熱が、強者や権力者のねじれた劣等感と狂信が内向し着床し腐乱すると、とんでもない狂熱に変質し暴発する。

その時はもう突き抜けるしかない。「何の因果でこんな無謀なことにいつまで耐えなければならないのか」。「陰熱」は反転し「陽熱」へと向かうことになろう。

 辺見庸も〝陰熱〟を体内に育てている

 通常、被殴打者は直立不動でたたされる。直立不動のさきには不可視の天皇がいた。おもいきりビンタを張られ、倒れたり、身体がゆらいだりすると、再び直立不動を命じられ、またまた顔をなぐられる。被殴打者による反撃は、どうやら、かんがえられもしなかったらしい。顔をなぐられて「ありがとうございます!」と言ったりする。言わされる。あれはニッポン様式であり、ニッポン的秩序でもあった。それがニッポンの思想の根にあった。

『もう戦争がはじまっている』河出書房新社、2015年、111ページ。

 

 ぼくは安倍という人物は巷間言われる〃小泉首相エピゴーネン〃どころか、小泉氏以上の確信的な憲法否定論者であり、異様なほど好戦的な考えの持ち主だと見ています。小泉氏は単純で陽性な独裁者、ファシストの一面がありますが、安倍氏はあの一見柔和な表情の裏に底暗い世界観を秘めた、いわば〃陰熱″の国家主義者であると感じます。彼の近著『美しい国』には「憲法前文には、敗戦国としての連合国に対する〃詫び証文″のような宣言がある」という驚くべき記述がありますが、多分、彼はこの国の戦後の成り立ちを根本から覆すような国家観をもっているのでしょう。にしても、あまりと言えばひどい話ではないでしょうか。小泉首相は自ら尊重も遵守もしていない憲法の前文を自衛隊派兵の論拠とし、次期首相と目される安倍氏はあんなもの〈詫び証文〉だと小馬鹿にする。

それでも、二人は高い支持率を誇っている。古典的な強権発動型ではなく、見た目には穏やかな協調主義的なく<下からのファシズム〉がこの国にはいま、さかんに生成されているからだとも言えますが、このネオ・ファシズムを支える一方の主役はやはりマスメディアではないでしょうか。

『記憶と沈黙 辺見庸コレクション1 』毎日新聞社、2007年、112ページ。

 

 「陰熱」とはなにか。何十年も埴谷の言葉につきあってきたけれども、わからない。ただ歓喜より感傷より、陰熱を私も好む。おそらくはひどく醒めた殺意に似た心意をいうのではないだろうかと勝手に見当をつけて、陰熱を私も体内に育てている。その意味で、イラク攻撃と有事法制に反対するあらゆる表現はもっと冷静に戦闘化すべきだと私は思う。人影もまばらな集会で犬の糞を踏む。薄く笑ってその情けなさを食う。それでいい.ばかげたお焼香デモにもつきあう。私はその情けなさを噛みくだく。すると、陰熱が静かに躰いっぱいに広がるのだ。

『いま、抗暴のときに』毎日新聞社、2003年。のち講談社文庫、2005年、21-22ページ。

註 

*1)田川の本性が、十分なコミュニケーションを図ることなく高圧的な振る舞いをして、忍苦の念で受け取らざるを得ない者の心情を無視する品性の持ち主であることは別として。