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辺見庸 研究 ~内宇宙への旅~

辺見庸の発言は、ときに「荒れ球」や「魔球」もあるが、「剛速球」が身上である。その根源にある思考とは何か。

40.コンプライアンスと新聞

 テレビや新聞で発信される情報がますます空虚になっている。たとえば「手ざわり感」「実感」が少しあるテレビ番組にしても、そこに組み込まれた「商品呪縛と批判精神の骨抜き」が露骨になっている。とくに民放は骨の髄まで消費資本主義に毒され、権力にすりより、自ら右傾化の走狗となっている。

 デジュール・スタンダードは、法的規制による標準・基準であるが、それ以外に企業や業界団体の政府へのロビイ活動によって決まる標準がある。これらは企業にとって好都合をもたらす経営環境条件となる。その結果、例えばテレビ広告における時間枠拡大により、視聴者が過剰なCMを見せつけられ、その結果消費者(視聴者)は知らず知らずのうちに(企業のステルス情報行動も含めて)商品購買行動へと駆り立てられる。また、訪問販売規制・電話勧誘販売規制に反対するためのロビイ活動が、一部の大手新聞社(読売新聞)によって行われたりする。

 民放のコマーシャル規制も実態は「弛緩」してしまっている。 

 民放連放送基準第18章広告の時間基準で「週間のコマーシャルの総量は、総放送時間の18%以内とする」と定めているが、明らかに抵触しているのではないか。また放送時間を監視しているのは、民放連なのかBPOなのか明らかにすべきである。ある局の統計を取ってみたが総放送時間の内、テレショッピング番組を約8時間半放送している。他の民放も頻繁にショッピング番組を放送しているが、画面に申し込みの電話番号を表示した番組は広告の時間として算入すべきである(2007年10月に視聴者から寄せられた意見から)。出所:放送倫理・番組向上機構BPOhttp://www.bpo.gr.jp/?p=551 。 

 なお、日本新聞協会の「新聞広告掲載基準(1991年3月20日一部改正)」には、特に数値は示されていないが、「第三種郵便物の承認条件等」として、広告(法令の規定に基づき掲載されるものを除く)が全体の印刷部分の100分の50を超える刊行物は承認の対象とはならないと記されている。広告スペースのあまりにも多いことに驚くばかりだ。

 NHKの番組も、時の権力を支える意図が露骨になっていて、巧妙に仕組むことすら放棄したかのようだ。

 テレビ番組の内容自体も荒み切っている。バラエティ、食番組、ショック・クトリンさながらの事件・事故番組、民放は似たり寄ったりの「バカ番組」「ナンセンス番組」を垂れ流している。少しは見ごたえのあるある番組は選んで一括録画するなどして知的防衛を図るしかない。または一切視聴しないことだ。

 なにしろ相手は、資本及び権力による意識産業の担い手なのだから。近年では自らメディアは権力を握りつつあるのだから。

 新聞がジャーナリズムの旗手としての立場というよりは、中立公正な立場から、読者にわかりやすく、興味をもって読んでもらえる記事を提供するという「良識」をもって紙面構成に努めているという。時の権力のチェックや逸脱のけん制機能などすっかり影を潜めている。そればかりか右派系新聞は系列のテレビ・雑誌などとともに実質巨大右翼翼賛会組織である「日本会議」に組み込まれつつあるし、権力の工作に尻尾をふりお先棒を積極的に担いでいる(石破茂小池百合子も「日本会議」のメンバーである。日本会議については、青木理日本会議の正体』(平凡社新書)を参照されたい)。

 辺見が「もはや戦時体制の前夜」「もう戦争が始まっている」状況であると言うのもむべなるかなである。

「もちろん、普通の人間は戦争を望まない。(中略)しかし最終的には、政策を決めるのは国の指導者であって、民主主義であれファシスト独裁であれ議会であれ共産主義独裁であれ、国民を戦争に参加させるのは、つねに簡単なことだ。(中略)とても単純だ。国民には攻撃されつつあると言い、平和主義者を愛国心に欠けていると非難し、国を危険にさらしていると主張する以外には、何もする必要がない。この方法はどんな国でも有効だ。」(ヘルマン・ゲーリング)(出典、Gustave M. lbert,2009年,p. 270)。 

 ナチス・ドイツの手法が日本会議の策動によって徐々に講じられつつある。歴史の記憶を書き替え抹殺し、アリバイ的な外交しかせず、ミサイル発射をせざるを得なくなるようにしたり、または「領海侵犯」を促している、猫だまし、ショック工作、偽装、陰謀など。 

 破たんする国家財政のシャッフル、デフレの強制的脱却、軍需関連産業の振興、米国に依存しない軍備体制確立、日本精神鼓舞など、狂ったよう暴走がまさに始まろうとしているのである。

 そんな状況に対してジャーナリズムはどう対処するべきなのか?

 コンプライアンスなど新聞にはなくていいのです。法令遵守はジャーナリズムにはなくていい。むしろ法令を破らなくてはいけない。破らないではやっていけないのです。で、破ったら逮捕だぞ、というのが特定秘密保護法です。この国は、「前戦争段階」という体制を、着々と、しかも具体的につくりつつあります。その事始めが秘密保護法だった。事態はますます進むでしょう。しかしそのシナリオ、その全体像を、描き出す能力がもうジャーナリズムからなくなっている。ぼくには手遅れという感が強くあります。

対談『絶望という抵抗』辺見庸佐高信、金曜日、 2014年、 124ページ。 

 一見「過激」に見えるこの辺見庸の発言を、「手遅れ」にしないようにするメディアの責任は重い。それ以上に私たち一人一人が「ことの重大さ」を認識する責任は重い。