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辺見庸 研究 ~内宇宙への旅~

辺見庸の発言は、ときに「荒れ球」や「魔球」もあるが、「剛速球」が身上である。その根源にある思考とは何か。

41.陰画としての全的滅亡

 この国の先人たちは一時代前に、大東亜共栄圏の妄想のもと、アジア諸国を侵略し約2,000万人もの人を殺戮した。それ以外にも多くの人々の生活を奪い一人ひとりの安寧を侵した。このような先人たちの罪業の反省と謝罪もないまま、われわれ末裔は記憶殺しのなかで今を生きている。

 敗戦後の腐った民主主義がはびこるのも必然のことである。倒錯の消費資本主義がそれを一層助長する。社会は災厄の種を残存したまま、「がん細胞」を全摘出しないまま「回復」が望めるのか。

 核兵器によるパワーポリティクスでの平和。こんな状態で地球はもつのか。爆弾を抱え込みながらの日々の暮らしが荒んでくる。それを支える世界各国の新中間層。中途半端に「一定の」生活水準をもってしまい、その保守的、恥辱なき意識、服従が続く。

 いったい何を受益したというのか。その利益とは何なのか。そしてそれは他を抑圧し、排除し、貧しき者たちから収奪したものではないのか。顔が卑しい。生気なくその内奥は虚ろである。

 極貧の「サケル」たち。飢餓に瀕した女性の聖なる顔が蜃気楼のように浮かんでくる。

「いっそ滅亡へ」「いっそ全的滅亡へ」。辺見庸はそうごちる。

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求めるべき平和への道を人類は決断しなければならない。それができないならば、いっそ全的滅亡をと叫んでしまう。それが地響きのように聞こえてくる。

 根こそぎの変革の出口を求め、謳い、燎原の火とする。それは陰画としての全的滅亡による荒野を反転させる唯一の火である。

 折口信夫関東大震災を見て「あゝ愉快と言ってのけようか。/一挙になくなっちまった。」と詩にうたい、川端康成は短篇の登場人物に、関東大震災は人間が絶対化してきたことを一気に相対化したと、こともなげに言わせました。東京大空襲の記憶にかさね串田孫一さんが幻想した人間滅亡後の眺めというのは、「とてもきれいな風景」で「さばさばしている」というものでした。堀田善衛堀田善衛で、「階級制度もまた焼け落ちて平くったくなる」という、「さわやかな期待」をもちました。

 これらの表現は、それぞれに思いの色合いがことなるものの、完膚なきまでに壊された人と社会のその先に、いったいなにが誕生してくるのか見てみたいものだという、各人にあいつうじる切望、内面のつよさや不思議な明るさ、もっと言えば“ふとどきで不謹慎な明るさ”をわたしは感じます。ふとどきで不謹慎な言葉というのは、そうではない襟を正した言葉よりも、ときとして逆説的な明るさを醸し、人に救いを感じさせたりするものです。

 『瓦礫の中から言葉を わたしの〈死者〉へ』NHK出版、2012年、181ページ。

 

 武田泰淳の口ぶりでは、第二次大戦の日本の敗戦は、滅亡としてはまだ不徹底だったということなんです。もっと滅亡しないと本当はいけなかったというぐらいの発想ですね。これはまあ仏教的ではあるのだけれども、徹底的な完膚なきまでの滅亡のなかから新しい価値観がでてくるのではないかということを、武田はほとんどうわ言のように書いています。「滅亡なくしては化合されなかった新しい原子価を持った輝ける結晶」の誕生を期待したりする。それには部分的破滅じゃだめなんだ、全的滅亡に近づかないと、と言う。かなりきわどい理屈ですよね。これは堀田善衞の「方丈記私記』なんかに較べても、はっきり言ってはるかにラディカルでいま読むとかえって新鮮です。泰淳は、たぶん原爆投下の衝撃からでしょう、科学技術の発展により、滅亡はますます全的滅亡に近づいていくだろう、とも予感している。二十一世紀現在にいるわれわれは、滅亡をもっとリアルに迫りくるものとして予感しなければならないのに、「復興」音頭で踊りをおどっている。

 『明日なき今日  眩く視界のなかで』毎日新聞社、2012年、48-49ページ。