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辺見庸 研究 ~内宇宙への旅~

辺見庸の発言は、ときに「荒れ球」や「魔球」もあるが、「剛速球」が身上である。その根源にある思考とは何か。

43.個的不服従

   逆説的反抗、徹底した不服従、テロ。情報ネットワーク手段を駆使した情報戦術や言論テロもある。これらの共通点は、個的不服従者が内的宇宙を凝視し続け、記憶が確固たるものであり、服従への反発・怒りが強いことに求められる。ひたすら高揚を求め声高に連帯を呼びかけるのとは異なる。

 

 一草一木までしみ込んだ無意識の服従も含めて、一切の服従を払拭し、怒りが浸透した一本一本の民草が生い茂るとき、個的不服従による対抗が敢行され拡大に向かう。

 その噴火のマグマの底には、本来1人ひとりの虐げられた状況を回復したいとの思いがあるが、それと同時に(ある面ではそれ以上に)1人ひとりの自覚がある。 

 

 権力に対する異議申し立てというのは、もっとつよい拒絶の意思表示であるような気がします。蚊の泣くような声で、「願わくば、しないほうが良いのですが」という調子でなされる表現の形式。ここに、かつてもいまもない苛烈で圧倒的な拒否、世界への「ノー・サンギュ‐!」があるのではないでしょうか。

『たんば色の覚書 私たちの日常』毎日新聞社、2007年。のち角川文庫、2011年、158ページ。

 

 服従を強制される。物理的、精神的に服従を強いられる。

 権力が改心や転向を迫り、受け入れない場合、有無を言わさず服従・強制を強いる。服従しなければ抹殺される。殺されない場合でも徹底的なダメージを余儀なくされる。屈従である。

 

 服従の強制は不条理そのもの、とうてい容認できるものではない。

 懐柔手段も巧妙化していて、都合のよいように法や規則を変更して、または民主的な手続きを装って強制する場合もある。マスメディアを使って意識改変を工作し、自主的服従を促したりする。不服従が掠め取られてしまうのである。

 組織にスパイを送り込んだり、幹部や不満分子を懐柔し組織の弱体化・消滅を図ることもある。情報工作がそれらのための必須手段となっている。

 

 個人以外にグループや組織への懐柔・服従策も講じられる。権力をもっている側は情報、資金、権力のすべておいて圧倒的に優位であるだけでなく、攻撃すべき組織の弱点を突く。対象となる組織は、構成員間調整が不可欠で、組織理念・基本方針の完全一致と永続的維持は不可能、しかも組織防衛が最終的な判断基準になってしまうのである。

 そこで異質な戦略と手段で対抗せざるを得ない。対抗は「個」を核にした多様性から生まれる。組織での不服従や対抗からはそれは生まれがたい。不服従の基本は「個」である。 

 この国の戦中、戦後において、責任という概念ほど重要なものはない。誰もが合法的に責任を免れるように生きてきてしまった。一人ひとりが責任主体として自らの内面の闇の部分に光をあてていく作業が必要だと思っています。

『流砂のなかで』辺見庸高橋哲哉河出書房新社 2015年、116ページ。

 

  私のいう共同性には、ハンナ・アーレントなどの思想家らがいう「公共空間」といったアイディアも含めて考える必要があるかもしれません。最近私はそう思っています。「公共空間」というと民衆的な新しい共同性を体現する価値のあるものと考えてしまいますが、そこにすらネオファシズム的な強制力が溶けて流入してくる可能性がある。 

 人間の繋がり合いというのはとても大事です。だからこそ私たちは常に個という極小の単位に立ち返る必要がある。「私」という単独者の絶望と痛承を、大げさにいうならば、世界観の出発点とする。絶望と痛承は共有できず交換も不可能である。そのことを認めあうほかない。そこではじめて、他者の痛承への想像力や存在自体への敬意が育つのではないかと私は考えています。

 『たんば色の覚書 私たちの日常』毎日新聞社、2007年。のち角川文庫、2011年、161-162ページ。

 

 「花は咲く」なんてやめろ、気色悪いと言うのはかなり難度が高いというか、相当の孤立を覚悟する必要がある。「われわれ人間の肉声など及ぶべくもない、つまりは絶対に朗読不可能な言葉を書くこと」という趣旨のことを詩人、渋沢孝輔は記していますが、いま風ファシズムの潮流に逆らうとしたら、斉唱拒否、唱和拒否、朗読拒否、声による陶酔拒否をするしかない。これも難度は低くない。

  でもね、「花は咲く」だって、優しく美しいけれど、もう見事な翼賛歌ですね。原発再稼働や日米軍事協力強化といったものに対してNHKはもちろん最後まで抵抗するわけがない。激しい争論を導くことも避ける。社会が闘争化せず、譜調のうちに和むように「花は咲く」を流しつづけるのでしょう。そうしろと政治権力から言われてはいないでしょう。強権的演出者や独裁者がなくても、新しいファシズムは展開可能です。現実にそうなっている。そこです、問題は。手弁当でやるボランティアがいくらでもいるしね。

『明日なき今日  眩く視界のなかで』毎日新聞社、2012年、57-58ページ。

 

その他の参考箇所(文献と箇所)

『いま、抗暴のときに』毎日新聞社、2003年。のち講談社文庫、2005年、230-231ページ

『言葉と死 辺見庸コレクション2 』毎日新聞社、2007年、9-11ページ。

『不安の世紀から』角川書店、1997年。のち角川文庫、55ページ。

『いま、抗暴のときに』毎日新聞社、2003年。のち講談社文庫、2005年、224ページ。

『たんば色の覚書 私たちの日常』毎日新聞社、2007年。のち角川文庫、2011年、157ページ。

『自分自身への審問』毎日新聞社、2006年、126ページ

『いま語りえぬことのために―死刑と新しいファシズム毎日新聞社、2013年、105ページ。