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辺見庸 研究 ~内宇宙への旅~

辺見庸の発言は、ときに「荒れ球」や「魔球」もあるが、「剛速球」が身上である。その根源にある思考とは何か。

44.民主主義の腐敗・変質

 民主化は、歴史を再検証し、全体主義国家主義)への個の闘い、一人ひとり生身の言動であることの共通認識から始まる。それでこそ腐敗・変質しない民主主義が育まれる。  

 骨の髄まで腐った民主主義国家」に民主主義を訴えることの無効性を感じてもいい。 対談『流砂のなかで』辺見庸高橋哲哉河出書房新社 2015年、87ページ。

 

 民主主義は国家という暴力装置を隠すベールであり続けたし、今後もそうでしょうね。言葉も奪い、資源も奪い、文化を破壊し、そうやって一国規模の民主主義というのは欧米列強のなかで維持されてきた。だとしたら、根源的には民主主義というものはなかったことになりますね。それも、情けないことに9.11までは気がつかなかった。しっかり振り返ろうとしなかったわけですからね。 対談『反定義 新たな想像力へ』辺見庸坂本龍一朝日新聞社、205ページ。

  

 日本はアジア太平洋侵略戦争に敗れ、主としてアメリカ主導によって「民主化」が推し進められ、天皇ファシズム軍国主義から民主主義国に急転回することになった。

 その転換ではアメリカの「民主主義」を拝受するしかなく、茫然自失した日本に民主主義を導入する心構えはなく、その導入・発展ためのグランドデザインの能力も時間的な余裕も全くといってよいほどなかった。一気に敗戦国日本は「暗転」を余儀なくされ、新しい「舞台」の設定要請は性急であった。

 

 戦後55年体制や60年安保闘争、70年代の学生運動があったものの戦後民主主義の「あだ花」でしかなかった。

 そしてバブル経済崩壊後の長期経済低迷と右傾化、戦後70年経ち戦後民主主義を巡って疑念・批判・反省の声が上がるようになった。

 

 だが、腐った戦後民主主義という前に、そもそも戦後民主主義は民主主義といえる代物であったのか。戦後70年間、民(たみ)が主権者であるとの意義を銘記し、その理念を具現する社会または国として成長してきたのだろうか。

 

  頭(脳)の表層に注入されただけの民主主義が、脳の深くに組み込まれることもなく腐っていった。闘い取った初々しい民主主義でなかったから変質は必然であった。そもそも戦後の民主主義は虚ろな代物であった。注入した(された)アメリカ民主主義自体があまりにも胡散臭い面を多く内包するものであったのだ。

 すぐ剥離するような、すぐ液状化するような、安易に溶解してしまうような民主主義。これこそ見直さなければならないのではないか。

 

人類の貧困を生産する作業に加担して、骨の髄まで腐っていないような民主主義国家は存在しない」というジル・ドゥルーズのことばにぼくは惹かれます。このことばから逃避できないということ。日本も腐った民主主義です。民主主義という鵺のような、どういうふうにでも変形できるもの、ナチスにもスターリンにもブッシュにも利用された民主主義という名辞にたいしこれからはもっと根本的な懐疑をもっていい。

『しのびよる破局 生体の悲鳴が聞こえるか』大月書店、2009年、115ページ。