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辺見庸 研究 ~内宇宙への旅~

辺見庸の発言は、ときに「荒れ球」や「魔球」もあるが、「剛速球」が身上である。その根源にある思考とは何か。

48.性、エロス

 生体としての人間にとって、食と睡眠と性は大きなウエイトを占める。それぞれについて辺見庸の作品をあげると、食については『もの喰う人びと』、睡眠については『自動起床装置』、性については『ゆで卵』『赤い橋の下のぬるい水』といったところが思い浮かぶ。もちろんこれら以外の作品でも食と睡眠と性は取り上げられている。

 辺見庸の「内宇宙」は、政治、経済、社会、芸術等とともに、位相は異なるものの性と食と睡眠が重要な位置を占めており、それらを自由に表現することに辺見は何ら躊躇することはない。

  とりわけ性・エロスに関しても隠すことなく赤裸々に表現することの基底には、辺見の反権力、反権威の姿勢からサンクチュアリの存在の罪を突くこと、さらには「瀆神」(「神」というのは聖なるもの一般。別に天皇だけではない)の意識があると思われるし禁中の薄明や、覗いてはいけない、触れてはいけないという、闇のなかの微妙な神経細胞のようなもの(天皇の告別式の場)への反発があるとも考えられる。『いま語りえぬことのために―死刑と新しいファシズム』などを読んでいるとふとそう思う。 

  しかもそこには辺見の少年期を過ごした石巻の海岸や松林で目撃し体験したことが、彼の精神の地下茎として根付いていてそれが絡んでいる、そんなことにも思い至る(既述の「下降志向」の項を参照されたい)。 

 辺見庸の性とエロスの原初生命に強く傾斜した認識は、故郷石巻の海辺で見聞したことや幼いころの体験など、それらが彼の精神の地下茎に根付き絡まり育まれたと考える。 

 辺見は小説以外でも戦地や社会問題を扱う場面や日常のなかで性を描いている。チェルノブイリ原発近くの廃墟となった町での車中でのガイドと通訳の行為、ダッカの市内の植え込みで仰向けになった男の陽根と自慰、ブータンの首都ティンプーでの黒犬の交尾、観覧車がある遊園地でフレミッシュ・ジャイアント(世界一大きなウサギ)の交尾、東京神谷町で仕事場にしていた部屋の隣室に住む黒人に会いに来る女たちが繰り広げる行為での仰天するほどの嬌声など。 

吉本:僕は以前、ある編集者から「吉本さん、自分のセックスについてどう思いますか?」っていきなりストレートに訊かれたことがありましてね、僕も率直に答えたんです。「だいたい文筆業というのは性的な欲求をひどく減殺するもので、こんなこと長年やってたらセックスは衰えるに決まってる。もしかりに精力絶倫だったら、文筆業なんかやらない。文筆業者であっちも旺盛という人がいたらお目にかかりたいよ」って。まあ、僕はそう言いましたけど、辺見さんならどう言います?

辺見:女から「あなた、文章は最低だけど性格は最高だ」と言われるのと、「性格は最低だけど文章はいい」と言われるのと、もう一つ、「あなたは書くものもくだらないし性格も最低だけど、あっちのほうだけは凄い」と言われるのと、何が一番いいと思うか?吉本さんなら何を選びます?

 吉本:う-ん。

辺見:僕は絶対に三番目だな(笑)。セックスが最高だと言われるのが、僕の夢ですね、というより人間的にそうあるべきじゃないかとどこかで思っている。現実にはまったくそうではないから、ものを書いたり理屈をこねたりしているわけですが、三番目が理想でしょう。

吉本:やっぱりそれは理想ではありますよね。

辺見:ええ。これ、僕、大真面目に言っているんです。抽象的にではなくて、具体的に見れば、人間なんてたかだかそんなものでしょう。しかし残念ながら、そういう視点が今までの性愛論には悉く抜け落ちていたように思えるんですよ。このことを下賤として排除しちゃいけない。

『夜と女と毛沢東吉本隆明辺見庸、文春文庫、2000年、125-126ページ。

 性のマチエール、女性の精神性と利己的遺伝子、エロスの心的溶解力。これらにはよくわからない部分がどうしても残る。

漱石って人はどうやら、女は世界の外からやってくる異類・マレビトの女類だと思っていた節がありますね。つまり、社会の中に男がいて女がいてというふうには思っていなくて、世界の実質は男だけでできている、だから女の人は世界の外からやってくるものだと感じている。それからもう一つ、女の人は結婚すると必ず悪くなると漱石は堅く信じていたんじゃないか。そういう点、とても共感するんです。この人は結局、家庭生活で奥さんとうまく和解できなかった人じゃないか、もっと言えば、女性というものを結局よくわからなかった人じゃないか、と思うんです。

『同上書』151ページ。

 性やエロスを辺見は赤裸々に描いている。そこに女性への差別意識は全くない。(田川建三は『思想の危険について』(5章)で、吉本隆明の思考における女性差別を批判しているが、そのような差別は辺見には皆無である)。かといってジェンダーとか一般的な男女平等論をベースにするわけでもなく、いわば基本は人間として同等である男女が、性・エロスではモノクロではなく「色づく」という感覚である。だからこそ『卵』や『赤い橋』での通常はきわどいモチーフでも、あくまでも男女の自由な内宇宙での営みの風景の一つとして読み進むことができるのだと思う(ただし、そのモチーフはとりたてて奇異なものではなく、作者のモチーフ選択意図が目につきおおらかさに欠ける)。

 

 白人女性の喜びようといったらない。白人の男たちはそのことを無意識に知ってるんだと思うんです。陸上競技やバスケットボール、アメフット、ボクシングだけでなく、セックスも白人男はアフロアメリカンに負けるんですね。白人の男たちは少なくとも、そう幻想している。ですから、彼らの目には白人女性の顔が性的な喜びというより、凌辱されているものとしか映らない。自分がむしろ犯されてるという感じ、白人の男が黒人の男にね。これまた、黒人への差別なのです。アフロァメリカンだっていくらでも弱い者もいるのですが、性が絡むと「公正」はなくなり、底暗いルサンチマンが頭をもたげるのですね。

『同上書』130ページ。

 

<補遺>

河野多恵子との対談: 「エロスと時代」『新潮』1996年4月号。

 

辺見:性は特に……。書かなくてもかかわってきますね。社会観、世界認識というのは性的トラウマ、コンプレックスの投影でもあるわけですから。セックスもジェンダーも、きわめて不安定で、ヒトという名称の疫病をよく示していますよね。大体、オルガスムス自体、愛そのものではなくて、ある種の社会的通貨でもあるし。

(165ページ)

 

辺見:性愛ということで言えば、ひとつは、行為としての性愛というのは、何か背理するもの、あるいは違反するものがないと、まったくおもしろくない。

辺見:時代が性愛の深さみたいなものを奪っているような気がします。劣情が今の世の中ではほとんど劣情たり得ない・・・。

(154ページ)

 

辺見:やっぱり性愛というものには、言葉が必要なんだなと。

河野:言葉というのはかなり嗜癖的。

辺見:しかも、相手に、その言葉に対する共鳴感がないと成立しないですね、あれは。

河野:どういう性愛の場合でも、言葉の刺激性の参加があるわけでしょう。

(155ページ)

 

辺見:今は身内から湧いてくるんじゃなくて、食欲と同じように、情報に頼らざるを得ない。逆に今の方がよほど倒錯的ではないかと思いますけどね。

(156ページ)

 

辺見:僕は水フェティシストみたいですけど(笑)、ぜんぜん逆に考える人たちもいる。 歴史と空間によってフェティシズムの対象は無限に違う。

(160ページ )

 

辺見:我々の日常のほうが異様なものを秘めてるなとよいうふうに思います。

大状況にしっかり背を向けて、性愛というものを、ある意味で真摯な姿勢で書き抜くこともまた僕はやっぱりもの書きの覚悟として大事であろうというふうに思いますね。それが今書きにくくはあると思いますよ。

(166ページ)