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辺見庸 研究 ~内宇宙への旅~

辺見庸の発言は、ときに「荒れ球」や「魔球」もあるが、「剛速球」が身上である。その根源にある思考とは何か。

51.マチエールあるいは原質的なもの

 手触り感がなくなりつつある。生体に息づく生命が原質性から疎遠になっている。辺見庸はそれについて「マチエール」という語を使って述べている。 

「マチエールということばを使いましたが、それは人でいえば、においとか温もりとか、冷淡さとか、あるいは抱きあったときの感触とか、つまり質感や手触りや痛覚のことです。そういう交感可能だったものがいま、交感不可能になっているのではないかとおもうのです。ぼくはつよいショックを受けたのですが、かれは携帯電話を二台もっていて、一台の携帯電話に別の携帯電話からメールを送信していた。つまり、自分で自分にメールするわけです。それは、おそらくこの青年だけではないでしょう。ぼくはこの衝動がわからないようでよくわかる気がします。

『いまここに在ることの恥』毎日新聞社、2006年。のち角川文庫、2010年、25ページ。

 

カブール郊外の果樹園上空で爆発した爆弾の細長い金属片で、一部は熱で飴のように溶け曲がっている。爆弾というもののマチエールというか触感を私は説明したかったのだ。戦争が抽象化され血抜きされて語られることに対し、どこまでも冷たい死の質感でもって反駁したかった。「破片に触ってみてください。それが体にぶすぶすと突き刺さるのです。臓脈や骨にその破片が食いこむ。

『たんば色の覚書 私たちの日常』毎日新聞社、2007年。のち角川文庫、2011年、190ページ。

  実感に呪縛され実感できない事は信じないという事態は、そもそもあやふやな実感を一層幻想化し過大に評価することにつながっていく。

 人間の五感によって現実認識をもたらすマチエールであるのだが、はたして原質を介してどのように感触は認識されるのか。「実感」といってもその虚実は明白なものではないのではないか。

 マチエールが確認されるのは、対象主体と相互作用する場合である。それが欠落していると虚なる疑似媒体によってでも「実感信仰」へと傾斜していく。

 権力が国民に実感させる術を駆使し統治することはたやすい。数字のマジックと集団心理を操作すればよいのだ。「国難」という語を使って恐怖の共有へと転換させていく。そのための「実感」が工作されるのだ。

 そこでは権力者によってつくられる「実感」を国民は「実感」しているだけであって、マチエールに必須の交感が欠落しているのである。

 じつは、あの事件を知ったときに、ぼくはあまり驚かなかったのです。そういう自分に不思議だった。それと、捕まった青年が印象に残らないぐらい普通だった。逆にその手ごたえのなさにすごく驚いたわけです。かれ自身にあまりマチエールがない。絶叫して「これが正しどとか、「だからおれは人を殺したんだ」ということがない。ぼくにはかれがこのメディア社会の所産のようにも見えたのです。つるつるのモニター画面から生まれてきたみたいな。そのことと切りはなしてこの問題は語れないだろう。

『いまここに在ることの恥』毎日新聞社、2006年、28ページ。

 いまやマチエールは「実物」に限定されることはなくなった。バーチャル・リアリティが実感の媒体性を帯びるようになっている。疑似リアリティとにもかかわらずそれがリアリティとして受け取られる。ビットコイン、3D空間、擬似HP、ポケモンGO、Web上での農作物栽培やバーチャル恋愛。これらはサイバー空間での現象ではあるが、それらとの意識交換は確実に生体反応との間に原質的なものとして認識されるようになっている。

  この背景には「情報消費市場社会」化とマスメディアという意識産業を利用した策謀があり、「もの」から「こと」への移行や「情報消費」が商品化社会の主流になったことを意味する。しかもそれがリアル世界での人間の実感を促す際の基準になったりする。

 情報の生産・流通・消費過程での非実物マチエールとしての情報が、原質的なものとなりそれ抜きではリアルを「実感」できなくなっているのである。

 そこには、情報生産者と情報の生産・流通実態が受信者に見えないという大きな問題がある。

  このような時代に個人がマチエールを求めるのであれば、情報消費市場社会から脱するか、それともことの本質を看破する眼力を獲得し、自らの情報識別力と想像力・再編集力の強化で対処することになる。 

 政治もマスメディアも、その実相というのか、社会の傷口の本当の手触り、マチエールを表現する意欲がないとおもう。コーティングされたことばで適当に分類しているにすぎない。この皮膜を、ペイントを引つばがしたらどういう世界が見えてくるのか。やはりそれはやらなければいけないとおもうのです」。

『しのびよる破局 生体の悲鳴が聞こえるか』大月書店、2009年。のち角川文庫、2010年、98ページ。

 

 どうしても避けることができないのは、さっきいったような誠実とか愛とか尊厳ということばを、商品世界のコマーシャルみたいな次元に全部うばわれている、つまり悪は悪の顔をしていないというときに、やっぱり本来のマチエール、愛にせよ誠実にせよ人間の尊厳にせよ、言語の実質、実感というものを取りもどすことだとおもいます。マチエールは簡単なものではないのです。触ってあったかいとか、においとか、それはマチエールといえばマチエールですが、それだけではない。もっとつたわってくる、深いもので、それには言語がかかわっているとおもうのです。

『同上書』117ページ。