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辺見庸 研究 ~内宇宙への旅~

辺見庸の発言は、ときに「荒れ球」や「魔球」もあるが、「剛速球」が身上である。その根源にある思考とは何か。

53.単独者としての行動

 被害者であり、かつ加害者である人間は、いかに実存者・単独者になりえるか。自由な存在への足場を得られるのか。辺見の思考に大きな影響を及ぼした石原吉郎、その石原を驚愕させた鹿野武一とは。

 シベリア強制収容所での鹿野の異様な行動に、その鍵を見出すことができる。そこには観念でもなく、言葉だけでもない、人間の罪業(スィン)を直視した末の自己否定がある。

 『海を流れる河』石原吉郎花神社のページを繰ってみよう。

 

  「ひたすら存続をねがう」こと、それは無理由の存続、他者の存続、他者の生命を犯してでも生きのびざるをえない自我の存続である。p.26.

 生きのこることは至上命題である。→そのためにこそ適応しなければならない。→そのためにこそ堕落はやむをえない。 p.43.

  彼の行為を自己否定ないし自己放棄とみなすことから、ようやく私は、自己処罰ということばに行きあたった。p.28.

 

 彼はいかなる刑罰を欲したのか。体刑である。

(中略)

 労働についての彼の独自の考え方は、おそらくは強制労働のなかで身につけた実感であろう。肉体が担った苦痛こそが、刑罰の名に値する。そして体刑のそのなまなましい痛みを、沈黙して耐える姿勢が、本来加害者である一人の被害者を平均化された被害者の群れから峻別する。その時はじめて、一人の単独者がうまれる。それが彼の考えた「自由」であり(それはストイシズムとはおよそ別のものである)、自己否定ではなかったかと私は考える。p.30.

「人間は本来なんびとを裁く資格も持っていない。なぜか。人間は本来「有罪」だからである。p.29.

 自己否定による単独者としての自由の獲得、それは収容所だけのことではない。追いつめられた極限状況下でも、そして日常においてもそれはある。石原は次のように記す。

 日常とは、日常の「異常さ」に謂である。日常をささえるとは、いわばこの異常さへ自覚的にかかわって行くことにほかならない。(中略)それは闘争というような救いある過程ではない。自分自身の腐食と溶解の過程を、どれだけ先へ引きのばせるかという、さいごにひとつだけのこされた努力なのである、p.16.

  ではどこに希望があるかと、人は問うだろう。それにたいして、ほとんど私は答えるすべを知らない。ただ、私にかろうじて、しかも自己のことばの責任においていえることは、逃げるな、負えるものはすべて負ってその位置へうずくまれということである。なまなかな未来を口にしないこと。そのことを、あらためて自己の決意とするということである。pp.16-17.

 

 この石原について、辺見庸はこんな発言をしている。

「(鹿野武一が)行列をつくるときに一番最初にやられる外側の列に立ったことを、ことさらに石原さんは書く。今度はそれを自分に反射させて、自分を告発していくやり方。あれはいったいなんなのか。ぼくは、それをしも馬鹿にするニヒリズムが、彼にはなかったのだと思う。それこそニッポン軍国主義じゃないか、あるいは天皇主義的ボナパルティズムじゃないか、という考えが彼にはなかった」(『もう戦争がはじまっている』河出書房新社2015年)。

 

 だが、これは辺見にしては珍しくその視角を誤っていると言わざるを得ない。石原吉郎にとっての鹿野武一は、自己処罰によって天皇および天皇主義的ボナパルティズムからも脱する単独者と捉えられていたと解するべきではないか。

 そこにおいては、抗議行動として、焼身自殺を図る者の思考と行動に通じるものを見る。そのような視点から鹿野武一を捉えるべきではないのか。