辺見庸 研究 ~内宇宙への旅~

辺見庸の発言は、ときに「荒れ球」や「魔球」もあるが、「剛速球」が身上である。その根源にある思考とは何か。

58.十字架

 石原吉郎はふつうに生きることを否定した。生きていることがむしろ不正常だという考え方が、経験的にも彼にはあった。石原という非生産的でネガティブな人、あらかじめ緩慢な自死を定められてきた人―。知る限りで何人か思い浮かぶけれど、たとえば尾形亀之助がそうだったのではないか。(中略)

 ただ、尾形の正確な末路はよくわからないけど、いわゆる自餓死と言われている。ハーマン・メルビルの『バートルビー』にも喩えられるかもしれないが、そのバートルビー的なものが石原にもまったくないわけではなかった。(中略)

 「私が理想とする世界とは、すべての人が苦行者のように、重い憂愁と忍苦の表情を浮かべている世界である。それ以外の世界は、私にはゆるすことのできないものである」ということを彼は言う。

辺見庸『もう戦争がはじまっている』河出書房新社、2015年、236―237ページ。)   

 

 人にとって「十字架」とは何か。イエス・キリストの「受難」そして「磔刑」に象徴される十字架ではあるが、十字架はイエスの受難だけを意味するだけでなく、ひろく人間に共通する罪業にかかわることである。イエスは人類の罪業を「すべての人に代わって」一人で引き受け、そして「磔刑」にあった。そこからキリスト教が生まれキリスト信仰が全世界に広められたのだが、その後、イエスの教えの異元化が世界中で行われることになろうとは。

 人が生きていくうえで、受難が不可避で宿命的であるとさえいえる。人間関係や人間社会、国家がもつ(もたざるを得ない)権力や権威は、個々の人びとの自由を制限し奪い去る。基本的な権利を侵す。人は何らかの罪を犯さない人はいない。クライムとスィンは人が生きるうえで不可避である。そもそも人は、他の生を奪うことなく、また他を傷つけることなく生きるということはできないのだ。

そのような意味でも、人は十字架を背負っている。

 

 石原吉郎は、召集拒否(兵役拒否)をすすめられたがそれを拒否して応召し、情報要員として教育訓練を受けたのち満州にわたり関東軍に属した。

 その前にキリスト教の洗礼を受けているが、結果的に戦争に加担するキリスト教に対する批判的な目はもちえなかった。

 1945年、日本は敗戦。ハルビンで密告によりソ連軍に拘束され、戦犯者としてシベリアに抑留されるが、石原が戦争加害者としての認識をいつ、どのように銘記したのかは本人しかわからない。

 石原吉郎は述べる。「私は広島について、どのような発言をする意志ももたないが、それは、私が広島の目撃者でないというただ一つの理由からである。私は告発しない。ただ自分の〈位置〉に立つ。」と。敗戦後8年間のシベリア強制収容所での「均一化された繰り返される生死の境での日々」の体験からの発語である。

 これに対して逸見庸は「目撃していないから発言しないというのではなく、視えない死をも視ようとすることが、いま単独者のなすべきことではないのか。」と批判する。

 石原はそれでも「他の生を犠牲にしてしか生きられない人間の罪業」を犯してきた自責の念から告発しない単独者を貫いた(ジャイナ教との異同はここでは触れない)。

 

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石原吉郎の「自編年譜」より

1938年(昭和13年)23歳

 東京外語卒業。大阪ガス入社。キリスト教に関心をもち、住吉教会を訪ね、ここでカール・バルトに直接師事したエゴン・ヘッセル氏に会う。住吉教会にあきたらず姫松教会に移る。同教会でヘッセル氏より洗礼を受ける。

1939年(昭和14年)24歳。

 九月神学校入学を決意し、(大阪ガスを)退職。上京。ヘッセル氏のすすめにより、当時新鋭のバルト神学者の牧会する信濃町教会へ転籍。東京神学校入学の受験準備を始める。十一月集を受ける。ヘッセル氏から召集拒否をすすめられたが応召(ヘッセル氏はすでにドイツ本国からの召集を拒否しており、米国へ亡命した)。

 その後、石原は情報要員として軍事教育を受け、関東軍司令部に所属、満州へ。敗戦後にシベリアに8年間、強制収容され、1953年に帰還した。