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辺見庸 研究 ~内宇宙への旅~

辺見庸の発言は、ときに「荒れ球」や「魔球」もあるが、「剛速球」が身上である。その根源にある思考とは何か。

60.ロマンチシズムの力

 

 「ぼくらの年になると、とにかく無事に暮らせればいい、という気持ちが片方にあって、そういう気持ちを引っぱって行くだけの力は、ロマンチシズムにはないんですよ。だからどうしても破壊ということになっちゃう。」(五木寛之との対談で)。

 武田泰淳武田泰淳全集』別巻二、筑摩書房、1979年、107ページ。

  この武田の発言は、五木寛之が、当時の若者たちのなかに、日本浪漫派や国際浪漫派とでもいうべき人が出てきているということや、「アナーキズムは舞踏で、コミュニズムは歩行みたいなもの」との発言を受けてのものである。

  ただし、ファシズムにもファシズムなりのある種のロマンというものがあると言えるかもしれないが、それは国家権力に誘導されたロマンであり、ロマンチシズムの特質のとして、個性(個体)を重んじ古典主義に抗することを欠く点で画然と異なるのである。

 ところで「とにかく無事に暮らせる」というときのその中身は何か。ロマンチシズムに魅力を感じなくなっている心情はどのような理由によってもたらされるのか?

〇まず考えられるのは、GDPが増え一定の物質的な豊かさを得られ、そしてまがりなりにも多数決による民主政治が形成され、それらによって従来は踏みにじられてきた人間の利己的遺伝子による充足がかなえられるようになった、ということ。

〇だが、その内実は、消費資本主義(市場主義)による操作対象でしかない。消費資本主義という高速機械装置の中で暮らすうちに消費購買におけるマチエールを欠き、さらには自分の「言葉」も喪失してしまっている。物質文明を享受し利便性から抜け出られなくなっている。

〇自らが物質化し(またはステレオタイプの剥製になって)、暮らしの中で緩慢なる死(「無機物化」)を「生きて」いる。そうような状態であっても利己的遺伝子は「よし」とする。リスクや負担が懸念される急激な無機物化を回避できるという「無事」を選んでいるのだ。

 その結果、一定の自己犠牲を必要とする民主社会や公正の理想を目指すロマンチシズムは後退するが、それを言葉で引っ張っていけないからといって破壊に走ってよいのか。よいはずはない。

〇エゴイズムは全面的な自己肯定である。一方、民主主義は自己犠牲という自己否定をf:id:eger:20170128151250j:plain

必要とする。そのことを前提としたうえで、はたして民主主義は成立するのか。これは永遠の矛盾であると言わざるを得ない(真継伸彦「生きることの地獄と極楽」武田泰淳『上掲書』195ページ)。

  この永遠の矛盾に人はいかに対するのか。矛盾への対峙さえ放擲し「無事に生きる」のか、それとも忍耐強く「歩行」をあきらめずに進み続けるのかが問われているのだ。ときにはニヒリズムを笑い飛ばして「踊る」ことがあってもよいと思う。