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辺見庸 研究 ~内宇宙への旅~

辺見庸の発言は、ときに「荒れ球」や「魔球」もあるが、「剛速球」が身上である。その根源にある思考とは何か。

64.スポーツ振興の光と影

 スポーツが法律問題として大きく社会問題として取り上げられるようになった。そんな折、知人の弁護士が『〝平和学〝としてのスポーツ法入門』という本を出した。「スポーツ法」のことや「スポーツの平和創造機能」について述べられている。

  スポーツの「功罪」については以前から論じられてきたが、この本では主にスポーツのもつ「功」について「平和の創造」という新しい視点から展開されている。 

「スポーツでの勝利は、確かに権力欲・闘争本能の十分な満足ではありません。しかし、ルールを介在させ、ある程度の満足で終わらせるノーサイドの結論に導く、それが人類の叡智、文化としてのスポーツなのです。そこにスポーツの良さ、スポーツの持つ『平和創造機能』があるとぼくは思います」。

(辻口信良『平和学としてのスポーツ法入門』民事法研究会、40ページ)

  武器をスポーツに持ち替える、それによって能動的平和的生存権の実現に結びつけるという主張である。

 とは言え、スポーツについてはどうしても胡散臭い面があることは否定できない。

 体罰や暴力、上命下服・上意下達の人間関係、自身のことを「自分」という習慣などは戦時における軍隊に通じることであると指摘し、国家の権力者によるスポーツ利用などについても著者はきっちりと触れている。一方、国連スポーツ省の創設といった提言もなされている。 

 だが、「スポーツの平和創造機能」の実現には、克服すべき課題があまりにも多い。オリンピックについても「平和の祭典」とばかり言えないことは多くの人が指摘してきたところである。2020年の東京オリンピックの開催をめぐっては、利権問題や公金の浪費が取り沙汰され醜悪な側面を晒している。

 逸見庸による指弾はさらに手厳しい。

 二〇一二年八月三日朝、ロンドン・オリンピックの狂乱の最中に、日本では二人の人間が 体操の吊り輪のような宙づり装置により、絞首刑に処された。まさに白闇のなかであった。刑場はつねに白闇に姿をあらわす。オリンピックと死刑は、断然なじまぬようでいて妙になじむのだ。だって、ふたつとも国家幻想が演出している格好の活喩法なのだから。国歌。歓声。国旗へのフェティシズム。英雄崇拝。五輪の絞縄。それらのしなる音。頸骨の砕ける音。いつわりのメッセージ。ガンバレ・ニッポン!友愛―連帯―フェア.プレー精神―神聖国家幻想―強国幻想―死刑台ー階段ー表彰台。友よ、しかし、国家とはほかならぬわたしらの集合的夢がこしらえた幻覚であることをうたぐるべきではない。

辺見庸『明日なき今日  眩く視界のなかで』毎日新聞社、2012年、33ページ。

 スポーツの功罪(または光と影)を考えてみよう。

<スポーツの効用・利点>

 ・闘争心、競争意識の安全弁または「ガス抜き」機能、

 ・心身の活性作用とその促進、カタルシス効果(結果的に医療費や福祉費用の低減)

 ・人間関係や国際交流の仲介と潤滑化

<スポーツを利用した問題点(罪)>(例示)

 ・商品経済化による人間疎外(消費資本主義の拡充やスポーツくじの弊害)

 ・政治利用(オリンピックに向けての「共謀罪」の制定による治安維持の策謀など)

 ・競争心・闘争心鼓舞(民衆の心的荒みの進行、国家総動員体制への地ならし)

 ・過度のトレーニング強制による「思考停止」人間の増加(文武両道の変質)

 ・身障者スポーツ振興による多くの弱者への偏見助長

 ・天皇などの権威を利用した社会形成(国体意識の助長)

 なお、スポーツ振興が官民一体となって行われていることはマスメディアにおけるスポーツ番組の多さや「スポーツ庁」の設置を見ても明らかであろう。

 とりわけスポーツ競技における技術は日進月歩だが、スポーツをめぐる制度や情勢は逆に退歩している。スポーツ(競技・大会)にまつわる危険に対してあまりにも無防備なのだ。

 スポーツという消費活動におけるミニマリズムエシカルアプローチを柱にした「新スポーツ憲章」が求められる。平和とスポーツへの取り組みは、それを基礎にしたところから始まるであろう。