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辺見庸 研究 ~内宇宙への旅~

辺見庸の発言は、ときに「荒れ球」や「魔球」もあるが、「剛速球」が身上である。その根源にある思考とは何か。

68.辺見庸の謬漏

 「品行の問題(自己否定による個の深化不徹底)」と「突き抜けられなかった」ことは、辺見庸にとって個のフレイジル(fragile)な面としてあらわれている。前項ではそのことについて述べた。

 加えて、これもすでに指摘してきたところであるが、彼の思考の基盤にかかる脆弱性について、どうしても指摘しておかなければならない。

〇平成天皇横浜駅の西口近くで思わず手を振り、さらには武田泰淳靖国神社参拝を容認する発言をしている。

〇「鹿野武一が常に隊列外側に位置するのはボナパリズムに通じる行為であり、石原の意識にはその認識がなかった」との理解の問題性。

〇消費資本主義の本質把握の不徹底

〇軍隊にいれば(実時間のことであれば)自分も人を殺し、慰安婦との行為に走っていただろうと述懐。(再掲)

〇その他。キリスト教理解の浅さ。(「「ヨハネ黙示録」は一種の幻想小説である。いろんなところから引用して書かれている。だから基本的にいろいろ詮索しても是非もないことである。しかも神学者たちは信教の立場から何とか引き寄せようと改竄解釈をしているという代物であることが辺見には認識されていない)。

 これらは辺見庸の思考基盤における「脆さ」を示している。

 人間である限り完璧ではいられないし、誤りを犯す。辺見庸もまた人間であり、誤りを犯す。

 そう言って辺見を擁護することは容易であるが、やはり自己の思考と言動の脆さを見つめなければならない。

 なぜそのようにいうかというと、辺見の他者への批判がこの上なく鋭く突き刺すようなものであるからである。そしてそれは、被批判者のホリスティックな価値が致命的な瑕疵をもったものとして読者に受け止められ、読者にとって蟻の一穴のごとく作用するからである。

 谷川雁太宰治柄谷行人チョムスキー石原吉郎吉本隆明丸山眞男堀田善衛埴谷雄高小田実などである。

 彼らに対する批判(詳細は辺見の著作を参照されたい)そのものは点としては正鵠を射たものであり、間違ってはいないのだが、そのように批判をする辺見は、無謬性を主張できるのか。できるはずもないし無謬を誇るつもりもないだろう。では細部に瑕疵は宿っていないのか。

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  撃つからには撃たれないだけの態勢でなければならない。これが鉄則だ。率直に自らの至らなさを自己吐露している辺見庸ではあるが、鋭刃の批判をするまえに今一度自己言及を徹底しなければならない(このことは自分自身も当然担うべきことだ)。

 それでこそ受動態たる認識的存在が「自己否定による自由の獲得」につながる。  

 ただし、以上のことがあるにせよ、辺見庸の卓越は比類ないものであることは明記しておきたい。

 ぶれない言動、突き詰めた思考、非権威・非反権力、瀆神精神、率直な吐露、行動性(デモ参加等)、鋭い言説(反天皇制と死刑反対、反帝国主義、抗暴)。