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辺見庸 研究 ~内宇宙への旅~

辺見庸の発言は、ときに「荒れ球」や「魔球」もあるが、「剛速球」が身上である。その根源にある思考とは何か。

69.イメージが論理を駆逐する

 辺見庸は、メディア状況のなかで、「私が最も耳をそばだてているのは、ジヤーナリズム論では、レジス・ドゥブレである」と言っている。

 そのフランスの思想家レジス・ドゥブレは、「世界を人間の意思の力で変えようとする運動は、活版印刷の終焉とともに幕を閉じた」とも述べているが、そのことに関連して、辺見庸は次のように続ける。

 彼はテレビについて述べたなかで、「イメージが論理を駆逐している」ということを指摘していますが、私もそう思います。

 辺見庸『不安の世紀から』角川書店、1997年、250ページ。

 さらに、テレビと視聴者間の「像合わせ」がなされているといった意味のことも述べている。

 ドブレ(ママ)はテレビがもたらした状況の変化について、常に刺激を求める視聴者に合わせることによる情報のヒステリー化、短絡化を挙げ、「大衆迎合人道主義」が横行して、「浅薄で凡庸なイメージ」が少数意見を圧殺するなどと語っている。よくよく考えてみれば、それはひとりテレビだけの罪ではなく、新聞やネット情報を含むマスメディア全体の病症である気がする。

 辺見庸『いまここに在ることの恥』毎日新聞社、2006年。のち角川文庫、2010年、66ページ。

 

 テレビは視聴者の知りたいことに応えるものであるはずである。知るということは本来、生きるため、そして個として創造的に生きるためである。

  丘の向こうに何があるのか、何が起こっているのかを知るための情報

 役に立つと思わせる情報 ・・・ 身を守る 身を立てる情報

 いろんな人間や物事があると思わせる情報

 話題(噂)を得る、あこがれとなること知る

 他者との関係で自己の位置を知る情報

 だが、テレビでは、視聴者が知りたいことを一見リアルに伝えるが、それはコーティングされた情報なのだ。人々の均一化・平均化作用が企図され、実行される。 

 ドブレは「今や政治はショーかスポーツの様相を呈し、市民の政治参加はサポーターの応援合戦のようになりつつある」とも言い、こうした社会は「ファシズムよりましというだけで、民主主義ではない」と断じている。あたかも日本について論じているようなこの分析のなかで私がとくに注目しているのがここだ。

 先進諸国における政治のショー化、有権者のサポーター化といった現象が、イメージ偏重型である小泉首相の登場を引き金に、この国でも顕在化したからだ。ただし、ドブレの指摘に一つの問いを継ぎ足したくもなる。日本は本当にファシズムではないと断言できるのか、と。

 辺見庸『いまここに在ることの恥』毎日新聞社、2006年。のち角川文庫、2010年、66-67ページ。

 テレビは「できるだけ遠ざかって」視なければならない。

 テレビ側としては、「絵になるように」企画し、撮影する。そのことを出演者に依頼し、出演者も意識的に、または無意識的にそれに応えるような言動をとる。場合によっては「やらせ」的な演出も辞さない。編集作業によって、都合の悪い内容は改変する。

 番組企画は、スポンサーや当局筋の意向を忖度したものになる。視聴率や視聴者の劣情、興味、意向を取り込む。事実(factやtruth)よりも、視聴者の心情や洗剤願望、期待に応えることが優先される。 

 基調として、批判的な番組は避ける。根源的な追及はしない。ネガティブな色彩は出さない。面白ければよいとの方針は、結果的に「無意味な笑い」「刺激」番組を生む。さりげなくスティル性も介在させる。その結果、景気浮揚、消費拡大、競争、思考停止に資する番組が多くなる。 

 テレビは、日常的に人間の五感と意識に高密度な情報発信をする。生活者のテンポや時間感覚、意識活動との齟齬が生じるが視聴者は慣らされていく。

 それが常態化すると、人は、いわば自動車や電車、飛行機の乗客のような意識に陥る。没自然性、没マチエール、没身体性である。テレビという仮想現実空間での言動が視聴者の意識に刷り込まれるのである。

 Post-Truthの世界の演出装置であるテレビ業界は、意識産業として、権力のメディアとして、さらにはメディア権力として情報消費資本主義を体現するようになっている。  日常やグローバル空間もそのような情報空間世界である。それに加えて現代では、無編集の膨大なネット情報が、「反・等価の原理」(小山俊一)を駆逐しながら人々を襲っている。