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辺見庸 研究 ~内宇宙への旅~

辺見庸の発言は、ときに「荒れ球」や「魔球」もあるが、「剛速球」が身上である。その根源にある思考とは何か。

70.洞察の分水嶺(その1)

 評論家の近藤洋太は、小山俊一の思索の書である『EX-POST通信』の一節についてこんなふうに書いている。

「私は彼の反国家的・反社会的な言説に必ずしも賛成ではない。たとえば、「EX-POST通信」No. 4の次の一説などがそうだ。」

(……私たち生き残った戦争世代の者の処世(ママ:原文は処生)上の最低綱領は〈国家のために指一本うごかさぬこと〉の外になく、思想上の最低綱領は〈「民族」「国民」を志向するいかなる動向にも加担しないこと〉の外にない)。 

 近藤洋太が何気なく使っている反国家的・反社会的という語。その安易な表現、そこにはあまりにも浅薄な思考が潜在する。小山俊一が述べる「殺され死」(国家による)を、どこまで理解して書いたのか。近藤は小山の著作を字面だけで読んで書いたとしか思えない。

 たとえば小山俊一の国家や社会・世界についての次の言葉を再吟味せよと言いたい。

●「自然死なるものは存在せず、あるのは社会死ないし世界死だけだ」。  

●「<階級的「殺され」死>と、世界全体からの殺され死。二種類の死の配分者とはとどのつまり同一者であり、国家である」。

●「私の生の重みが彼らを殺す側の秤り皿にのっている」。

 天皇制国家だけでなく、国家そのものの暴力性、民衆・市民に権力機構から発せられる「民族」とか「国民」といったものにたいしては、危険ゆえに無防備であってはならない。無防備でいると、いつ「殺され死」させられるかわからない。しかも、いつの間にか加害者側に取り込まれて加担してしまいかねないのだ。

 そのことに思い至ることなく、近藤洋太は「今日の私は、このような恫喝めいた物言いに感応することができない」と述べている。近藤は、まず自分の「鈍感さ」を自覚しなけれなならない。

 また反社会的な言説というが、現実の社会がどれほど「正社会的な」ものなのか。「社会的な義にたいする根本的な批判基準は、<Notとしての義>(「反・等価の原理」)のなかにしかない」との小山の言葉を銘記せずに「賛成しかねる」といったとてそれは虚言にしか聞こえない。

 このことを見ただけでも、近藤洋太の『人はなぜ過去と対話するのか』(言視舎)という本が、内容の薄っぺらな雑本であることは明らかである。

 近藤は、辺見庸の「反社会的」という語に関する次の指摘をとくと吟味すべきであろう。 

「反社会的」とはなにか。私はそれをこれまで公安警察用語とばかり思っていたのだ。公安的タームからすれば、大学や学生はそもそも「反社会的」なものであり、ある意味ではそうであっていっこうに構わないと考えてきた。風景は変わった。「反社会的」なる断定を警察だけでなく大学までがやるようになったようだ。「反社会的」というでたらめな概念規定が、今日のアカディミズムでは通用するようになったのか。それでは「反社会的」のアントニム(反義語)はなんであろうか、と私はとぼとぼ歩きながら考えた。この告知を書いた人物はそれに答えなければならない。けしからぬ「反社会的」存在の締めだしを呼びかけるからには、依拠すべき「正社会的」とでもいうべき価値を提示するのが親切というものではないか。もしも、「反社会的」も「正社会的」も自明のことではないかというのなら、もう学府は要らない。

 辺見庸『いま、抗暴のときに』毎日新聞社、2003年。のち講談社文庫、2005年、84ページ。

 民衆は、世界対抗実現の水準のすぐ下の紙一重のところに存在している潜在態であり、対抗は人の数だけある。

 ボルネオで敗戦を迎え帰還した小山俊一は、孤絶のなか思索を深めそのことを言い残したかったのだと思う。