読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

辺見庸 研究 ~内宇宙への旅~

辺見庸の発言は、ときに「荒れ球」や「魔球」もあるが、「剛速球」が身上である。その根源にある思考とは何か。

72.洞察の分水嶺(その3)

 辺見庸は虚偽や衒いなどについてこんなことを語っている。

 人間の問いと応答は、そのなかに千態万様の(問いじたい、応答じたいの)虚偽や衒いプレやズレ、多少の演技をふくみもつものであろうし、それはそのまま人間存在の「根」そのものの危うさと妖しさにつながるだろう(『増補版1★9★3★7』201ページ)。

 ここでの「問いと応答」は、他者とだけではなく自己自身も含まれると考えられる。

 ところで、評論家の近藤洋太は、牽強付会に自分の思想の中核は「自己欺瞞論」であるとしている。

 しかも小山の自己欺瞞論を、「私という人間にとって、きわめて実践的に役立つのだ」と、あたかも処世のハウツーものにしてしまっているのである。まさに近藤は辺見庸や小山俊一の自己欺瞞への視座を矮小化(狭小化)してしまっているのである。そのことは「自己欺瞞に」にかかわる人間観察や「私事」の引用が的外れなものであることに如実に表れている。

 小山俊一の自己欺瞞についての見解は、生活人の「認知的不協和論」でもないし、ましてや処世論ではない。

1)まず①外から強いられる客観的「問題」、②内から発生する主観的「問題」の極点からはなれるにしたがって(とくに②の側では)、私たちが抱くどんな「問題」にも殆んど避けがたくウソがまといつく。いいかえると、そこに「切実重大」を感ずるときの私たちは殆んど避けがたく多少ともウソ人間と化さざるをえない。

2)そもそも虚偽は、外発と内発(個人の生における外発と自前化、そして大状況的には、たとえば夏目漱石のいう「外発」による西欧化と「内発」)との過程において必然的に生じる一種の罪業であること、そしてそれによる自己条件の引き受け、対峙、葛藤および斥動などの問題としてとらえられるものである。

 これらを踏まえて、小山の自己欺瞞にかかる真髄に迫る言葉に耳を傾けてみよう。

 私が自己矛盾としての「受け入れた存在」であるとは、それを私が存在するとは、どういうことか。そしてそのさい、「受け入れない」という論理的契機がさいごまでつきささっていて抜けないということはどんな意味をもつのか。こう問うときに、「〈存在〉としての私と全体〉としての私」という、割れ目だらけの壁開面をつたってここまでたどってきた問題性が、ここでいっきょに一つの究極的なかたちをとってあらわれることになるようだ。

  これが「人間の根本の生命」、心の中の「生命の木」を養うのには、血も死も抜き取った上積みの生命だけで間に合うと考えているのか?との疑問の解読につながってゆく。そして小山の次の一連の(箴言ともいえる)言葉が、そこへと架橋するのである。 

f:id:eger:20170301093732j:plain

〇自分の内部に陥没や空洞のような部分、ときにはガンの結節みたいな部分ができていて、自分が思考するとき(それが自分にとって本質的な思考であればあるほど)そういう部分との暗黙の取引ないし格闘をさけることができない。

〇何かを存在し何かを引き受けるということとちょうど反対物が、否定力、「斥動」それ自体だ。

〇日本の戦後史なるものは、「どんなに人をほとんど必然に自己ギマン化・ウソ人間化せずにおかぬ<嘲弄的>な仕掛けのものだったか」の説明だった。

〇ひとりひとりが己れの必然に衝突してそれに固執するほかない。ナショナルなものを政治行動の中で追及することは有害無益なことである。