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辺見庸 研究 ~内宇宙への旅~

辺見庸の発言は、ときに「荒れ球」や「魔球」もあるが、「剛速球」が身上である。その根源にある思考とは何か。

73.辺見庸:TV出演(3月12日)への視角

 辺見庸が、病をおして近々NHK教育テレビに出演する(2017年3月12日:再放送3月18日)。テーマは 父を問うーいまと未来を知るために」。

 彼は、亡父をどのように語るのであろうか?NHKはこの時期、どのような番組作り・編集をする(できる)のだろうか?

 辺見の父は1943年に出征した。

 ほとんどの者が、内心、理不尽さを感じつつもそれを嚙み殺しつつ応召した。人間の存在のありようが、その背景に厳然としてあることを認めざるを得ない。

 この国は、五族協和さらには大東亜共栄圏の実現、「国」(すなわち天皇)への忠誠を求めた。そして、国民を乾いた縄で締め付けるように徐々に戦時へと追い込んでいった。

 出征者は、家族、父母、恋人、友、仕事、天職、こだわり、将来の暮らし、夢。それらを無理やり封印しなくてはならなかった。身辺に渦巻く戦争への駆り出しの雰囲気に叛くことは不可能だった。

「外からおっかぶさった他の力でやむをえず一種の形式をとる」ことを外発とすれば、人はまさに外発条件を受け入れる存在である(小山)。

 小山俊一は述べる。

 人間の存在がwas bornという受動態で始まること・自分という個として存在して他人になりかわれないこと・時間がさきへ不可逆にたつ一方であること・死ぬこと、という四つの条件によって、人間のいわば根源的受動性というものがなりたっていると考える。そしてこの四つの条件が歴史社会のなかにそれぞれ具体的な仕方であらわれるところで、人間のいわば二次的、事実的受動性というものがなりたっていると考える。

 出典:小山俊一『EX-POST通信』弓立社、1974年、34ページ。

  小山の指摘は意義深長である。

 「受け入れない」というトゲ(論理的契機)を内包しているかぎりにおいて個が存立する。そのことを銘記しつつ生きる。そして希望を持つことができなくとも、生きる。

(「受け入れない」という契機が失われれば、「受け入れた存在」なるものはただちに消失するほかない)。

 では、その精神的な支えはなにか?

 生きる身体(個としての身体)は、死を認識する存在として、死を受け入れる(問題とする)。受け入れながら生きる。

 もちろん戦地では、内発的には生きられない。今を生きる意味を失い、または将来への希望という意味を求めることもできない。

 ましてや有効な手段を得て「事績」を刻み歴史的な存在になり死を超えるなんてこと

はありえない。戦争は、生きていることの内容つまり意味を奪い、無化してしまうのである。

 「生き延びようという意思をもつこと、生き延びることが義務であり、生き延びることに意味があることを知ることが必要(フランクル)」なのだろうが、戦地ではそれはほとんど望むべくもないことだ。一刻々々を生きるしかない。生きるということは、人生が求めることに応える(答える)ことに生きることの意味を求め、その意味への意思を失わないことが必要、そうでなければ自己の「存在」が喪失することになるが、まさにその「喪失」を兵士たち、戦争当事者は体験する。 

 戦地ではフランクルのいう強制収容所での囚人の心理学における心理的反応の三つの段階に類比される体験をすることになる。

  1. 入所ショック:文字どおり「裸の」実存になる。これまでの全人生にきっぱり始末をつける。自殺を断念、どうせ殺される。そして佇まいを健康で働けるのだという印象を与えるよう振る舞う。
  2. 恐怖、憤激、吐き気のあと、情緒がなくなり、無感覚、無感動、無感情、無関心になる。そうすることによって、一日をなんとか生き延びることだけに全力が注がれる。
  3. 人間としての内面的な水準が群居動物の水準にまで下がる。個性が埋没する退行する。「均一化」される。   

 そのような状況の中で多くの兵士は、撃たれ、爆撃され、刺され、飢え、罹病し、自死し、死んでいく。精神的な支えや生きる意味を喪失し、戦意発揚を強制され、ぎりぎりの生命の灯を燃やす。ある者は暴行や強姦、殺害によって快を求め、ある者は隊の中でうまく立ち回り、狡猾な行動によって力の意思の充足へと走る。

 武田泰淳も戦地で二人を殺した。堀田善衛も「被侵略者」が虐殺されるのを黙ってみていた。辺見庸も、もし戦地にいたら慰安婦に性の欲求処理を求めただろうと述懐している。

 生き残って戦地から帰還した者はいかに生きるのか、振る舞うのか。強制収容所からの出所者の心理に通じるものがあるが、異なるのは、帰還兵は国によって出征を強制された被害者であるとともに戦闘・侵略の加害者でもあった(面が強かった)ことである。

・人が変わったように賭け事や女に走る。荒んだ暮らしに陥る。

・しばしば戦争中のことが思い出し心痛にさいなまれる、自己崩壊への防衛本能から か戦地での行動を肯定的に語る。

・金銭欲に身をゆだね、蓄財に努める。

・戦後民主社会に適応すべく早々に切り替えて「平和な」暮らし向きに没入する。

・贖罪の意識を秘めた生活を送る。

・国家とか、民族に与しない生き方を貫く。

 

辺見庸父親の行状を著作で述べている。~

(戦地で朝鮮人をスリッパで殴る、帰還後にはDV、パチンコに熱中、ヒロポン、借金、無言で息子と釣り、勤務先の新聞への戦記投稿、愛人関係など)

 なお、身内の出征を見送った者たちも、国家によってそうせざるを得なかったし、また少なからず自身も「殺され死」に追いやられた被害者であるが、一方で加害者でもある(「殺す」側の秤り皿にのっていた)。そのことを看過するべきではない。(今回の番組で、辺見及びNHKはそれについて明示できるか。注視したい)。

 現代社会は、いわば巨大な強制収容所であり、無機質で殺伐たる戦地である。そういわざるを得ない側面がある。人びとはそのなかで自己の人生から求められることを直覚できず、したがって答えられず、実現できず、責務を果たしえていない。

 ましてや個として世界に対抗しえていない。個としての生きる意味を見出しえていない。

 戦争は以前のものとは全く異なるものとなった。民衆を巻き込んだ一瞬の大量虐殺、無機質な殺戮手段の拡大、これらが高度技術・情報化しシステム化した現代の戦争の特徴となっている。

 それでも人生にイエスという。生き延びること、その中で人生が求めることに個として答え(応え)ていく。

 消費資本主義社会の中で、快楽と力(拝金・組織権力)への意思で動く生き方と百八十度異なる生き方に転換する。

 それは元来「受け入れる存在」である人間が、外発の受け入れ方を変革することであり、いわば関与の転換である。

 個の復権、人生が求めるものを感得し自分なりの事蹟を重ねる。

    収容所と化した現代社会でも、人生にイエスという。それは逆説を反転させた発語である。