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辺見庸 研究 ~内宇宙への旅~

辺見庸の発言は、ときに「荒れ球」や「魔球」もあるが、「剛速球」が身上である。その根源にある思考とは何か。

74.辺見庸「父を問う」(NHKの番組)について(その1)

辺見庸の印象

 無精ひげ、右半身のマヒ、右目の視力低下、口の乾き、不如意に右唇から唾液が出るのを何度かぬぐう等、大病の後遺症や72歳の高齢を感じさせた。ただし、話の内容は示唆に富むものであった。

 愛犬とともに出演。(家族が家を出てから久しく、独居している寂しさを愛犬を飼うことによって癒す暮らしぶりを窺わせた)。

  ダーク・アンド・エンプティの時代。だからこそか、むき出しのコンクリートブロックの壁で囲まれた薄暗い地下室風の空間、白黒スライド写真、小さな灯りが一つ。「最も明るいところが最も暗い」の逆空間のなかで、辺見庸はひとり語り続ける。

 

番組内容 

 戦後を、国民は自分という主体がなく対処してきた。妄想・妄動だった戦争の実態を知ろうとしないこと=想像しないことは、「知的ではない」どころか「知ろうとすることに対する冒瀆」と辺見は言い切った。そのとおりである。

 だが、戦争を「社会的な義」として取り上げるならば例えばドイツについて言及するべきであったし、「知ろうとすることに対する冒瀆」とするならば「Not(Notwendigkeit)としての義」(小山俊一)から究明・アプローチがあってしかるべきであった。

 戦時下において「じゃあ、お前だったらどうだったんだ」と詰問され、または自問し、「もしその場にいれば殺していたかもしれない、いや99.99%殺していただろう」、多くの人がそう答えるように辺見自身も例外ではないことを認めている。

 戦争の当事者であれば仕方がなかったとして免罪されるのか。やはり承服できることではない。個が「Notとしての義」を、苦しみ悶絶しながら、または居てもたってもいられない方向で示すことにこそ意味がある。この点を突き抜けなければ「一億総玉砕」という集団意識を結局撃つことはできない。辺見がそのことを認識していないはずがないのだが、ぎりぎりのところで詰め切れてない。

 「Notとしての義」については、「怨」の字を掲げた水俣病被害者とその家族の意識と行動の核にそれがあった。そのほか全国各地での闘いで血を流した人びとのなかに見出せる。(そこでの「義」(Menschlichkeit)は誇れるものだったと思う)。

 なお、「戦争ではすべての国民が国による被害者であっただけでなく、自明のことだが加害者であった」という面を強く指摘するべきだったにもかかわらず、やはり番組では明示されなかった。

 小津安二郎の映画は、戦争の責任者、被害者、加害者を不在にする「コーティング」がなされているという点について辺見は話していたが。(つづく)

 

 付記

辺見庸「父を問う―いまと未来を知るために」

再放送はNHK教育テレビ、3月18日(土曜日)13時~14時。