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辺見庸 研究 ~内宇宙への旅~

辺見庸の発言は、ときに「荒れ球」や「魔球」もあるが、「剛速球」が身上である。その根源にある思考とは何か。

76.シベリアと香月泰男(その1)

 香月泰男は1943年に応召、満州に送られ、敗戦後シベリアに俘虜として抑留されたのち帰還した。その間、約4年であった。

 辺見庸が、香月について記しているのは全著作の中で次の箇所だけである。

 

  画家の香月泰男(一九二〜七四年)はかつて「1945」と題する不気味な画を描いた。画面いっぱいに、顔をはじめからだじゅうに無数の線条をはしらせた男が横だおしになっている。香月が『私のシベリヤ』(筑摩書房)で(同著のゴーストライターだった)立花隆にかたったところによれば、それは「満人たちの私刑を受けた日本人にちがいない」という。香月が敗戦後、中国からシベリアに送られるさい、「奉天」(遼寧省灌陽の旧名)のあたりで車中からみた屍体だった。(『1937』、397-398ページ。シベリヤ・画などの表記はママ)。f:id:eger:20170316152556j:plain

(中略)香月はヒロシマの屍体を無睾の民の被害を象徴する「黒い屍体」(じっさいには「赤い」それもあったのだが)とよび、線路脇にみた生皮をはがされたニッポンジンの「赤い屍体」に、加害者の死を象徴させる。香月はかたる。「赤い屍体の責任は誰がどうとればよいのか」「戦争の本質への深い洞察も、真の反戦運動も、黒い屍体からではなく、赤い屍体から生まれ出なければならない」。だがしかし、よくよくかんがえてみれば、「黒い屍体」の責任も「赤い屍体」の責任も、被害の責任も加害の責任も、敗戦後七十年、まだだれもとってはいない。つごうのわるい時間はかつてよりぶあつく塗りつぶされたれたままである。(辺見庸『増補版1★9★3★7』、398ページ)

 香月泰男は、体が弱かった自分まで出征を余儀なくされることになった状況に、内心、反発しただろうことは想像するに難くない。一方、国家によって「殺され死」されてたまるかと思ったにちがいない。また、軍隊という組織の中に組み込まれ自分が均一化されることに対して強く嫌悪しただろう。

 しかしその香月の反戦厭戦、避戦の思いは、満州そしてシベリアでの過酷な生死不定の日々の中では意識の最深部に沈潜してしまった。唯一、時間が取れた時に家族宛ての「軍用葉書」(軍事郵便はがき)に絵を添えること、および収容所で頼まれて肖像画を描くことなどで癒された。それは生の原質をわずかにではあるが「美」に昇華させるものであった。

 香月泰男は、1947年に帰還後(と言っても十余年経過後)いわゆる「シベリア・シリーズ」において画家として後世に残る独自様式による創作活動を精力的に展開した。「反戦画家」としてみる向きもあった。香月自身はそう呼ばれることに違和感を感じていたものの、戦争が人間にとっていかに不条理・過酷・残酷なものであるかを身をもって痛感したし、それをモチーフにして絵画で表現することができるのは自分だとの意識も強くあったと推察される。

 シベリア・シリーズと呼ばれる絵画は57点ある。上記の「1945」(1959年作品)も含めすべて山口県立美術館に収蔵されている。今ではその美術館は、山口県長門市にある香月泰男美術館とともに山口県の「名所」の一つとなり、来館者も多い。(つづく)。