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辺見庸 研究 ~内宇宙への旅~

辺見庸の発言は、ときに「荒れ球」や「魔球」もあるが、「剛速球」が身上である。その根源にある思考とは何か。

78.「誠実」をめぐる虚実

 辺見庸はおもに二つの著作のなかで「誠実」について述べている。玄妙な詩、技巧的で晦渋な表現を組み込んだ鋭い批評や、衒いながらの小説、それらとは逆に、譫言や自らの「痴態」をときに記してきたブログ「私事片々」からは一見程遠い「誠実」ではあるが、彼はそれをどのように語っているのであろうか。

 辺見はまず「誠実」の変質を、商品の物神化と商品呪縛(商品フェチ)との関連で指摘し(『しのびよる破局』、52ページ)、それが現代の消費資本主義社会においては深く広範囲に浸透していることを次のように述べている。  

 愛とか誠実とか徳目というけれども、長くつづいた消費資本主義のなかでは、それらは全部商品広告の世界のなかで使われているということです。穏やかさとか、癒しとか、約束とか、人間の基本的な徳目というものが全部商品広告の世界のなかで使われて、資本主義を支えてきてしまった。

 辺見庸『しのびよる破局』116ページ。

 

 どういう精神を生産しているか、どういう物質を生産しているのか、全体像を見ないで仕事を誠実に果たし、結果的に核兵器ができていく。これは本質的には犯罪だと私は思うのです。悪意なき犯罪ですね。

 辺見庸『不安の世紀から』90ページ

 

 現代人は資本主義による物象化を受け入れる存在(反映的存在)である。それによる「反・等価的存在としての個」の喪失。このような指摘は今では評論家なら誰でも口にすることで珍しいことでも何でもない。

 注目するのは辺見が「誠実」という徳目を次のように語っていることである。 

〇ぼくは賛成もし、惹かれもし、動揺もし、それと同時につまらないともおもうことばが「ペスト」にはでてくるのです。主人公といってもいい医者のリウーという人物が、あるときいいます。「ペストと戦う唯一の方法は、誠実さということです」と。

 これって、あくびがでるぐらい退屈な真理だとおもうのです。その誠実さというものは、退屈だし、これ以上ないほど凡庸でもある。けれども、真理はしばしばひどく退屈です。誠実という真理以前のビヘイビア。けっして燦然と光るのではない、微光のようなことわりをぼくは最近、しきりになぞったりしています。

『しのびよる破局』101ページ。 

〇誠実とはだから、自他とのほとんど自己破壊的で、自己犠牲的で永久的なたたかいからしか生まれないのではないでしょうか。ぼくは徒労だらけの『まちがいだらけの人生でしたけれども、いろいろな場所で、人の誠実ということにはそれはそれは教えられました。それはぼくが他者からあたえられた、照りかえされた誠実の凄みです。

 『同上書』108ページ。

〇「誠実」と異次元のことのようにおもわれるかもしれませんが、強権支配への異議申し立てや抵抗だって、人としての誠実や他者への愛に深くかかわるといえます。

 『同上書』111ページ。

 

  辺見庸の精神の地下茎には「誠実」がこのように根づいていた。感慨をもってこれらを読んだ。これはこれで「異論」をはさむことはないことである。

 ただし、そこには物象化、商品呪縛、消費資本主義における「誠実」の変質への批判的な言辞から、逸見庸が一転して「誠実」の徳目をそのように語ることに戸惑いも感じる。

  なぜか。それはお気楽な「なんちゃって」ブログ(「私事片々」)などで辺見がときに語ってきた「譫言」や自らの「痴態」の記述を、どう受けとめればよいかである。

 そのように考え進めていくと一つのことに思い至った。

   誠実の本質は、自己欺瞞のアンチ・テーゼが「誠実(自分があるところのものであること)」とは限らず、「自他とのほとんど自己破壊的で、自己犠牲的で永久的なたたかいからしか生まれない」のであれば、その具現が検証されなければならない。己の「必然」の発生とその後の等価則への変質を、技巧的にまたは譫言的に書きつづることと誠実とはまったく無縁のことである(その後景に、言葉による交換の無効性さらには「言葉の死」の意識があったとしてもだ)。

  このことは、彼が偶然目撃したオウム事件をモチーフにした小説『ゆで卵』で示した、「自己回復」として女と性交することや、ゆで卵を使った「痴戯」ついても言えることである。 

 小説であれブログであれ、(結局ことばの売り買いをする手段であるかぎり)、心象風景を含め表現するからには「己れの必然との衝突」を「回避」することなく、「固執」し続けること求められる。それを表現の中に読者が素直に直覚すれば(できれば)、辺見の「誠実」を感得することができるのだが。

  辺見庸の内的世界に「延性破壊」が起こりつつあるようにみえることについては すでに書いた(66回ブログ)とおりである。

   次の文章が辺見庸自身に突き付けられたとき、彼がどう答えるのかが問われていると思う。  

 下心なしのことばというものは全部なくなっている。それは全然カミュの時代とはちがう。みんな下心のある、モノを売るためのことばにしかならなかった。そこに怖さがある。もはや悪は悪の顔をしていない。悪は善の装いをして立ちあがってきている。そこに疑りの眼をむけなければいけないとぼくはおもうのです。

 辺見庸『同上書』116ページ。