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辺見庸 研究 ~内宇宙への旅~

辺見庸の発言は、ときに「荒れ球」や「魔球」もあるが、「剛速球」が身上である。その根源にある思考とは何か。

80.ある詩人の「剽窃」

 辺見庸は10年ほど前にこんなことを書いている。

  どだい、政治のなにが重要というのか。あれらの言葉の愚弄。空洞。あれらの言葉の死。ほら、そこの軒下に干してある黄ばんだおしめほどの意味すらありはしない。

『言葉と死 辺見庸コレクション2』毎日新聞社、2007年、203ページ

 

    政界用語や本性を美化する日本会議の面々による胡散臭い用語。もし言葉に匂いがあれば「異臭」が立ちもめているといってもよいだろう。しかもそれをマスコミが大衆の「俗情」を察知しながらかき混ぜる。清冽な言葉が完全に滅し、不等価性をもった言葉も死んだ。人びとは、指示用語と商品化用語だけの世界で生きていく。

  ところであるツイッターで次のような文言が目についた。詩人、河津聖恵(第53回H氏賞受賞者)のつぶやきである。

 

 私にとって詩の主体は、言葉あるいは日本語かもしれないとふと思った。あたりまえかもしれないけれど。これだけ人間が言葉をエゴの恣にし、噓いつわりしか語らなくなると、言葉が人間を見捨てていく。人間が言葉を、ではなく。だからせめて詩を書くときは、遠ざかろうとする言葉の側につきたい(下線は引用者)。 2017年3月13日

 

 「言葉が人間を見捨てていく。人間が言葉を、ではなく」。まさにこの一文は現在の言語状況に対して的確な表現である。ニッポンや米国だけでなく、世界の国・地域にも当てはまるようになっている。

 だが、この表現、45年前にある詩人が発したものであることについて河津は記していない。あまりにも有名なフレーズゆえに、記憶の中にあったものをつい使ったのか?それとも未必の「剽窃」(盗用)なのか?

 河津聖恵は、その後、この表現が日本共産党機関紙「しんぶん赤旗」のコラムで取り上げられたことをツイッターで紹介している(2017年3月27日)。そのコラムを書いた詩人も、これが(この部分が)石原吉郎(詩人)によるもの(と同様の趣旨)であることについて全く触れていない。

 その点、辺見庸は、このフレーズが石原吉郎によって発せられたと適確に書いている。(出典:『瓦礫の中から言葉を わたしの〈死者〉へ』NHK出版、2012年、185-186ページ:他の著作の中でも引用している)。

「ふたたび、石原吉郎の言葉が浮かびます。

・・・・・・ことばを私たちがうばわれるのではなく、私たちがことばに見はなされるのです。ことばの主体がすでにむなしいから、ことばの方で耐えきれずに、主体である私たちを見はなすのです。いまは、人間の声はどこへもとどかない時代です。自分の声はどこへもとどかないのに、ひとの声ばかりきこえる時代です。日本がもっとも暗黒な時代にあってさえ、ひとすじの声は、厳として一人にとどいたと私は思っています。いまはどうか。とどくまえに、はやくも拡散している。(後略)(「失語と沈黙のあいだ」『石原吉郎全集Ⅱ」花神社より)(下線は引用者)。

 

  河津は、ツイッターにおいてではあるが、詩人として情報発信媒体を使い他者の重要な「言葉」を使う。それについて気づかないまま肯定的に「評価」する「詩人」もあらわれる。それが「政党新聞」にそのまま掲載される。

  「言葉が人間を見捨てていく。」(河津)「ことばの方で耐えきれずに、主体である私たちを見はなすのです。」(石原)。この二つのフレーズが実質同じであることは明らかである。

  詩人という言葉をいのちと同じくらい大切のするはずの人、最も言葉を創造的に扱うはずの人が、このありさまである。(商品経済に心を売った谷川俊太郎もしかりであることは以前取り上げた)。

 言葉が「詩人」を見捨ててしまうことにならないように願うばかりである。

 

* 付記

 後日、河津聖恵氏から「剽窃」を認めるメールでの回答があった。しかし、反省の言葉や、善後策について何も記されていなかった。