読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

辺見庸 研究 ~内宇宙への旅~

辺見庸の発言は、ときに「荒れ球」や「魔球」もあるが、「剛速球」が身上である。その根源にある思考とは何か。

81.夜と霧

f:id:eger:20170408161847j:plain

 強制収容所の入り口が近づいてくる。次々に夜間秘密裡に捕縛され、収容所という名の地獄のなかで多くの人が消されていく。

 

 機関車の鋭い汽笛が薄気味悪く響き、それはさながら大きな災厄に向ってひかれて行く人間の群の化身として、不幸を感づいて救いの叫びをあげているかのようであった。そして列車はいまや、明らかに、かなり大きな停車場にすべりこみ始めた。

  

 貨車の中で不安に待っている人々の群の中から突然一つの叫びがあがった。「ここに立札がある―アウシュヴィッツだ!」各人は、この瞬間、どんなに心臓が停まるかを感ぜざるを得なかった。アウシュヴィッツは一つの概念だった。すなわちはっきりとわからないけれども、しかしそれだけに一層恐ろしいガスかまど、火葬場、集団殺害などの観念の総体なのだった。

 

 列車はためらうかのように次第にその進行をゆるめて行った。すなわちあたかもそれが運んできた不幸な人間の積荷を徐々にかつなだめつつ「アウシュヴィッツ」という事実の前に立たせようとするかのようであった。今やすでに一層色々なものが見えてきた。

『夜と霧』フランクル著作集・第1巻(霜山徳爾訳)みすず書房、1961年、84ページ。

 

 戦時においても普通のくらしがある。石川淳は短編「マルスの歌」で、何気ない顔をしたファシズムを描いた。辺見庸も「日常の時間そのものが、盤石の正常さとともに、実は狂気を秘めているのだろうと思う」と書いている(『絶望という抵抗』)。

 

 では、今という「実時間」ではどうなのか?

 ショック・ドクトリン国民意識支配の日常手段として講じられるなか、消費資本主義による「平和」の時間が流れている。

 言葉に責任を持たない厚顔無恥な「詩人」が盗みをはたらき、本来、歴史に学び戦闘を回避するべく必死に努めるべき政治家が交戦やむなしとばかりに気色ばみ、民衆を根こそぎ 捕縛する準備に躍起になっている。

 考えてみると、人間存在そのものが、本来、危ういものであり、いつ、壊され、つぶされ、消されてしまうかもしれない状況のなかで生きている。 

 だが、小山俊一が言うように、人間は基本的に受動的な存在ではあるが、一人ひとりが己れの必然に衝突し、それに固執することが求められる。

 

 生きていくにはやむをえず「受け入れ」ざるを得ない。受け入れるにしてもどこまで受け入れるのか、本当に受け入れるのか。「そんなはずじゃなかった」では手遅れなのだ。

 軽薄で独善的なスピリチャリズムに憑かれた独裁者によって、「夜と霧」の指令書が手あたり次第に発せられる前に、己れの「必然」に衝突するほかない。