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辺見庸 研究 ~内宇宙への旅~

辺見庸の発言は、ときに「荒れ球」や「魔球」もあるが、「剛速球」が身上である。その根源にある思考とは何か。

82.世間への溶解と「個」の死

 日本には世間はあっても社会がないという話はよく耳にする。

「世間」とは、諸個人がつねに集団の価値観や意見を優先する空間であるとすれば、そんな世間で生きたとて本当に生きたといえるのか。

 

 辺見庸は「個」にこだわる。彼の著作のなかで「個」ないし「個人」という語はかなり高い頻度で出てくる。そして「個人という言葉が日本では1884(明治17)年までなかった」との阿部謹也(西洋社会史の研究家)の言葉を紹介している。

 

 何よりも個として生きてこそ生きるということなのに、自分で考えることをせずに、自身で「変だな」と思っても異を唱えない。いちいち異説を持ち出して周囲と衝突していては神経が疲れる。周囲との関係を重視し自分の意見を封じ、流されるままに生きている方が楽だとつい思ってしまうのだろう。 

 

ファシズムそして独裁、これらも「均一化」「他律性」という点で世間と同じである(当初、または表向きの「題目」とその後の「実体」とは似て非なるものである)。

消費資本主義社会やマスメディア空間も例外ではない。これらも間接的に「均一化」「他律性」を強いるものであり、ファシズムに転化する特質をもっている。

 

 小山俊一は言う。

 個とはひとりひとりの人間のことだ。いうまでもなくこの地上にあるものはすべて個としてある。山も海も木も鳥けものも夕焼けも風も波の音もすべて自然は個なるものとしてある。すべて個なるものはくみつくしがたい。しかし私たちにとってもっともくみつくしがたいものはついに人間という個だ。すなわち人間ひとりひとりは個のなかの個、くみつくせぬもののなかのくみつくせぬものだ(小山俊一「オシャカ通信」No.2)。

 

 利己とは、利己的に生きること。生きていくこと、そして種をのこすことのために行動することである。その第一義的な目的は「存続」にある。

 一方、個は存続を第一義にしない。目的は、「唯一無二」を実現することにある。

後天的に獲得したものを基調とするが、自業・他業が編み合わされ形成され、明確に固有・独自なのは通常はごくわずかしかないものの、わずかでもそれがあれば「個」としてとても貴重なことである。

 

 辺見庸の「個」についての見解を記しておきたい。

 私の個人的テーマでもあるのですけれども、社会が悪くなるというのは必ずしも悪意の人間たちがたくさん増えていることを意味しないと思うのです。私は、いまの社会というのはなんていうのでしょう、たとえば集合的な無意識っていうのでしょうか、あるいは集団的な無意識―ちょっとユングの言葉のようですけれども―に左右されつつあるような気がするのですね(辺見庸『不安の世紀から』p.89)。

 

 この国の精神の土壌はいまもって、意志的決定よりは、暖昧模糊とした生成、醸成に向いているようだ。政治、経済の帰趨でも、議論を積み重ねた意志的、計画的な組み立て作業の結果というよりは、ときどきの「空気」によりなんとなくそうなってしまったという、長い生成の結末であることもしばしばである

 無意識の生成のプロセスや、その場の「空気」が、往々、個々人の意志的決定を溶解してしまう。あるいは徐々に呑みこんでしまう。そこに、「私」がいないということはないのだ。

 「私」はいながらにして溶解してしまうのである(辺見庸『同上書』p.279)。