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辺見庸 研究 ~内宇宙への旅~

辺見庸の発言は、ときに「荒れ球」や「魔球」もあるが、「剛速球」が身上である。その根源にある思考とは何か。

84.「自己教育」 (その2)

小山俊一のことば。(『プソイド通信』『EX―POST通信』から)。

 

〇教育というのは、これを与える側からいえば、ひっきょう上から(外から)の論理、罠を仕掛けることにほかならぬのではないか、というのが教師をやっているあいだつきまとわれた根深い疑問だった(186頁)。

〇どんな「外発」力も、そこにある種の「内発」を生じさせるだけの喚起力・挑発力をもつものでなければ、どんな「一種の形式」もそこに生れることはできない(186-187頁)。

〇今や世界は(むろん私も含めて)「自己欺瞞」でできているといえるほどの状態に達しているので材料に不足はない。どう問題を限定するかが難関だ。「救い」の方はいまだにわからない。わかる見込みもない(154頁)。

〇(ニーチェのいう「(自己教育にとって)生れながらの敵である親ども教師ども」をはじめ全社会からしかけられた)さまざまな「後退の(パターン」を破る〈暴力〉
的な「試み」という性質が、ある共通の構造をそなえながら必ず含まれているにちがいない。それは見る目さえあればつかみ出せるにちがいない、と私は考える(19頁)。 

〇そういう痛切な経験(人がめいめい与えられた自己条件と自己状況に立ち向かって生きてゆく過程で必ずぶつかる〈自己教育現象〉)をひろく集めることができれば、その輝きと豊かさの前ではいっさいの教育理論は色あせるにちがいないと私は思う(18-19頁)。 

 〇 教育の現場(むろん学校にかぎらない)をまさに教育の現場たらしめるもの、それがく教育現象〉だーというのが私の考えだ(183頁)。 

〇「自己教育」こそが<教育現象>の核心である (184頁)。   

〇人間が限られた手持ちの手段を使って、直面する状況(問題)をのりこえるところには、つねに<教育現象)が生じる(184頁)。  

 

 「自己教育」という用語は小山俊一の独創によるものである。この用語は一見すると、カントの教育論における「人間は人間の全自然素質を、自分自身の努力によって、自分の中からしだいに取り出すべきである」との思考に類似しているように見える。

 だが、「人間の全自然素質を自分で取り出す」という表現では、誰のために、何のためにという点が明らかにされていない。むしろカント教育思想における実践論で目指される、①訓練: 野生(動物性)の制御 ②教化 :熟練した能力の獲得ということからすれば、その目的は外在的である。

 その点、自己教育は、「思考」を自己対象化として捉えるものであるといえる。

  ウソと自己欺瞞でできている世界に対抗する個人、ないし個的必然性と世界との確執という視点から「自己教育」を見直す。小山俊一の教育論の核心はそこにあると思う。

 付記

 小山俊一は「自己教育」論を、永山則夫を巡って展開している。これは凡庸な批評をはるかに超えるものであると断言してよい。