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辺見庸 研究 ~内宇宙への旅~

辺見庸の発言は、ときに「荒れ球」や「魔球」もあるが、「剛速球」が身上である。その根源にある思考とは何か。

84.「自己教育」 (その2)

 「第三の暴力」とは、集団を前提としない、あくまで諸個人の自律性に基づいた抵抗であり、これは日常の些細な場面でも起こりうる。それはまた、国家や、国家と連動する資本主義から見れば「無価値」の者たちが、各々に表明する抵抗の形態でもあるだろう(『たんば色の覚書 私たちの日常』165ページ)と、辺見庸が述べる。あくまでも諸個人なのだ。

 では、人はいかにして「個人」になるか。

 

 小山俊一のことばに耳を傾けてみよう。(『プソイド通信』『EXーPOST通信』)。 

〇どんな「外発」力も、そこにある種の「内発」を生じさせるだけの喚起力・挑発力をもつものでなければ、どんな「一種の形式」もそこに生れることはできない(186-187頁)。

〇(ニーチェのいう「(自己教育にとって)生れながらの敵である親ども教師ども」をはじめ全社会からしかけられた)さまざまな「後退の(パターン」を破る〈暴力〉
的な「試み」という性質が、ある共通の構造をそなえながら必ず含まれているにちがいない。それは見る目さえあればつかみ出せるにちがいない、と私は考える(19頁)。 

〇痛切な経験(人がめいめい与えられた自己条件と自己状況に立ち向かって生きてゆく過程で必ずぶつかる〈自己教育現象〉)をひろく集めることができれば、その輝きと豊かさの前ではいっさいの教育理論は色あせるにちがいないと私は思う(18-19頁)。 

 〇 教育の現場(むろん学校にかぎらない)をまさに教育の現場たらしめるもの、それがく教育現象〉だーというのが私の考えだ(183頁)。 

〇「自己教育」こそが<教育現象>の核心である (184頁)。   

〇人間が限られた手持ちの手段を使って、直面する状況(問題)をのりこえるところには、つねに<教育現象)が生じる(184頁)。  

 

 「自己教育」という用語は小山俊一の独創によるものである。この用語は一見すると、カントの教育論における「人間は人間の全自然素質を、自分自身の努力によって、自分の中からしだいに取り出すべきである」との思考に類似しているように見える。

 だが、「人間の全自然素質を自分で取り出す」という表現では、誰のために、何のためにという点が明らかにされていない。むしろカント教育思想における実践論で目指される、①訓練: 野生(動物性)の制御 ②教化 :熟練した能力の獲得ということからすれば、その目的は外在的である。

 その点、自己教育は、「思考」を自己対象化として捉えるものであるといえる。

  ウソと自己欺瞞でできている世界に対抗する個人、ないし個的必然性と世界との確執という視点から「自己教育」を見直す。小山俊一の教育論の核心はそこにあると思う。

 付記

 小山俊一は「自己教育」論を、永山則夫を巡って展開している。これは凡庸な批評をはるかに超えるものであると断言してよい。