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辺見庸 研究 ~内宇宙への旅~

辺見庸の発言は、ときに「荒れ球」や「魔球」もあるが、「剛速球」が身上である。その根源にある思考とは何か。

85.辺見庸 ×目取真 俊 : 対談

 戦争へ向けて歩み始めている。

   目取真俊 × 辺見庸の対談は、そのような情況かと思わされるなかでなされた。まさに時宜にかなった対談である。

  だがこの対談、共同通信社の配信によって4月16日に沖縄タイムス琉球新報に載ったものの、今のところホンド(本土)の各新聞には掲載されていない。大手新聞および地方紙は、この二人の見解をスルーすることが現政府に良い印象を与えるとでも判断(自主規制)したのか、それとも日々マスメディアに軽佻浮薄を意識づけられている読者には「受容されない内容」であると思ったのか。

 一日も早くこの二人の対談を各新聞社が掲載することを望むものである。さらに言えば対談のすべてを何らかの形で公けにしてほしいと願う。

  ラディカル(本質的)な視点からの二人の発言から数点抜粋する。だが、これら(すべて、もしくは一部)が、今のニッポンでは自然には受け入れ難いとする「空気」が現存する。そのことが「異常」なのだ。

 

 下記の文章(枠内)については前後関係を「本文」で確認の上、読んでいただきたい。

共同通信 / 沖縄タイムス 2017年4月16日)辺見庸氏X目取真 俊氏  対談「本土の視線、潜む欺瞞」-沖縄基地問題を語る。

   対談記事の出所(抜粋元)。

    「Blog「みずき」2017.4.16 。今日の言葉。

           「志情(しなさき)の海へ」2017年4月 19 日。真実の在り処。

 

①本来は敗戦後、昭和天皇を処罰の対象とするのが当然だった(辺見)。

②1945年2月に近衛文麿(元首相)が出した戦争終結の上奏文に昭和天皇は、もう一度戦果を上げてからでないと、と言う。沖縄は「捨て石」という判断がその時から既にあった(辺見)。

③沖縄も無垢じゃない。加害者でもある二重性を自覚すべきだ。ベトナム戦争でもイラク戦争でも基地を通じて米軍を支えた(目取真)。

④目取真さんは沖縄を人間身体と不可分の問題として考えている。(中略)例えば、沖縄が必要としているのは一人の米国人の子どもの死だという暗喩を込めた目取真さんの掌編小説「希望」。傑作です(辺見)。

⑤安保条約の問題を抜きにした9条擁護派は欺瞞だと思う(目取真)。

⑥沖縄の渡嘉敷島宮古島読谷村には慰安婦の慰霊碑がある。(中略)沖縄に置き換えれば、そういう碑をつくるなと国が口を挟むようなものだ(目取真)

⑦怒りの導火線が湿った状態がいつまでも長続きするとも思わない。かつてとは違う形の闘争が何らかの契機で爆発するときがあるかもしれない(辺見)。

⑧日本政府が(沖縄の)独立を認めることはあり得ないと思う。領土だけではなく、広大な領海も失う。そうなれば、自衛隊が出動し、県民に銃を撃つかもしれない(目取真)。

   

 

<余禄:私見>

 領土・領海の拡大または独裁者国家の延命など、他国のせいにしながら国土・国民の防衛を言い募るニッポン政府。

 侵略され攻撃される前に撃つこともあり得ると言う。自国だけでは心もとないから米国の軍事力を頼みにしつつ。

 「かの国」が核兵器保有と威力を顕示する核実験を強行すれば、米国は独裁者の暗殺さらには核攻撃を含む軍事力行使を断行すると公言している。米国まで核ミサイルが確実に到達する水準(力量)に「かの国」が達しないうちにである。在日米軍、在韓米軍に死傷者や犠牲が出てもやむを得ないと割り切る。ましてや、日本や韓国にどれほど犠牲が出ようと「織り込み済み」のことするのが米国の見解だ。その先には、中国の領海・領土拡大に対する反発・制御戦略の強化や先制がある。

 安倍内閣は、クニのためならば、国民は犠牲を覚悟するのは当然であるとする。政府(国家権力)の役目は武力攻勢してでもニッポンを守ることにあると公言する。

 だが、そもそも朝鮮分断そしてその後の朝鮮戦争は、軍国主義ニッポンおよびその後の米ソの覇権争いに起因したものである。今日の朝鮮半島の分裂は、休戦そして収束の結果、朝鮮民衆がやむをえず受け入れたものだ。日米の侵略の罪業が朝鮮半島の今日の状況を生み出しているのであって、そのことを頬被りし「休火山」のマグマを噴出させるがごとく穿つことは、二度にわたって朝鮮民衆を痛めつけることになる。

 アメリカ・ファーストが自国(米国)第一主義であるならば、文字どおり軍事も自国防衛に専念し外交努力と国内問題改善に全力を傾注すればよい。シリアや北朝鮮には自力更生を間接的に支援するべきだ。ましてや権力者自らの支持回復のために戦略的に他国を介入・侵略することは、被侵略国や世界の安定には厄災以外何ものでもない

 国家の本質は暴力装置である。自国第一主義の国家リーダーたちが、その暴力装置に手を染めることを民衆として止めなければならない。暴走は金融資本主義で、もう、辟易しているのだ。

「 怒りの導火線が湿った状態がいつまでも長続きするとも思わない。かつてとは違う形の闘争が何らかの契機で爆発するときがあるかもしれない(辺見)」。