辺見庸 研究 ~内宇宙への旅~

辺見庸の発言は、ときに「荒れ球」や「魔球」もあるが、「剛速球」が身上である。その根源にある思考とは何か。

86.「それでも人生にイエスと言う」

 V・E・フランクルが著した『それでも人生にイエスと言う』(山田邦男・松田美佳訳、春秋社)は、「心の救い」と「矛盾隠ぺい」の両刃の剣であるが、実際は前者の書として世界中の人びとに読まれてきた。とりわけ悩める若者や挫折者に生気を回復させてきた功績は大きい。

 この言葉が発せられたのはナチによる強制収容所においてである。人間扱いされない極度の負(マイナス)の生存条件下で人間はいかに生きるのか(生きられるのか)、いかなる意識をもち行動する(できる)のか。

 周囲には、人間の劣情、獣性、権勢欲が渦巻いている。傷ついた獣のようにひたすら生きる。弱みを見せることは「死」を意味する。だから虚勢を絞りだす。体力・気力・知力の消耗はすでに限界に達している。

 今日は生きられても明日はガス室で殺されるかもしれない。それでも「人生にイエスと言う」。恐怖のドン底での狂気や逆説の言葉ではない。ギリギリの正気からの言葉であり、観念的な理論や小手先の心理治療での用語でもない。理論や治療メソッドは後付けされたものだ。

 一方、字面だけでこの言葉を受け取ると「安易な人生訓」に陥ってしまう。さらには権力者や強者にとって都合の良いように使われてしまいかねない。反証・批判はあてがわれなければならない。さもないと、この言葉は矛盾を糊塗したり抑圧の道具となるのである。

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 フランクルは「宗教的な人間は、人生は神が課した使命だと知って生きている」としているが、宗教的人間の方が<存在理解>が優れているとしていることも、宗教が有する危うさ(現実の矛盾の溶解)に無批判であってよいのかとの疑問がどうしても残るのである。

   

   辺見庸も、「フランクルが唱えていることはその凄絶な体験からしても生半な生の賛歌では無論ありえない。私が持ちあわせている自死の理屈なんぞフランクルが展開する意味論からすれば屍のようなものだろう」と述べるとともに次のように記している。

 

フランクルのこの論述自体が・・・・私は彼の言葉をどうしても素直に受け容れることができない。とりわけ「ある死刑囚の例」で語っていることは死刑や教誨活動を事実上、主の名の下に容認したがえうえでのものであり肯んじがたい。(辺見庸『自分自身への審問』毎日新聞社、2006年、151頁)。

 

     とは言え、「それでも人生にイエスと言う」という言葉は、深遠な意味をもつ言葉であることに違いはない。いくつかの留意点を掲げよう。

🔴ここでの人生は「わが人生」であろう。それを敷衍し各人の人生にもイエスと言うということになる。

 自分の人生は生きるに値しないと自身が思う場合にはイエスと言えないが、皆さんの人生にはイエスと言ってください、というのでは説得力に欠ける。各人の(いかなる人であっても)、いかなる状況にあっても、人生にイエスと言えるのか、との問題も含んで考えなければならない。

🔴「それでも人生にイエスと言う」といっても、その内容や覚悟の程度はどうなのか。

V・E・フランクルが言っているのは、彼の強制収容所での体験からして、相当の覚悟であり、深い洞察に基づくものであることは相違ない。凡人がポジティブシンキング志向を吹き込まれてこの言葉を口にするのとは格段の相違である。深く考えることなく「現状肯定」をずるずると引きずっていると、いつの間にか取り返しがつかないことになっているが常態なのだ。

🔴「人生の意味を見出せなくて」ではなく、人生が求めてくることに感応して生きる意味を知る。「人生にイエスと言う」のはそのようにしてである。

 🔴これはフランクルの言葉ではなくて強制収容所での「囚人」たちが隊列を組んで行進するときに歌ったもので、それをV・E・フランクルは自分なりの心理学に基づく心理療法(ロゴセラピー)に即して唱えたものであるという。その際、ニーチェニヒリズムの超克としての「超人」思想を参照し、「それでも人生にイエスと言う」と発したものであるとされる。

 ただし、V・E・フランクルは「人間は、もう論理的な法則からこの決断を下すことができません。自身の存在の深みから、その決断を下すことができるのです」(『同上書』、112-113頁)とも述べていることに留意する必要がある。

🔴人生にイエスと言う。その内容はさまざまである。ただ肉体として生きる(生存する)、課せられたさらには科せられた人生を生きる、役割意識で生きる、人生意味あるとして喜びにみちて生きる。このように幅広い。一方、逆に、人生にノーという人もいる。そしてその内容は多様である。

🔴「それでも人生にイエスと言う」というフレーズの中に「それでも」という前詞が置かれているのは、イエスと言えない状況があって、それへの対処に苦悩し葛藤していることを含意する。その苦悩・葛藤を幾度繰り返してきたのか、その苦悩はいかほど深いものであったのか。それらのことを同時に観取しなければ、この言葉の核心について想到したことにはならないのではないか。