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辺見庸 研究 ~内宇宙への旅~

辺見庸の発言は、ときに「荒れ球」や「魔球」もあるが、「剛速球」が身上である。その根源にある思考とは何か。

87.生命は個としてのみ実現する

 大量殺りく、核攻撃、動機不明の殺傷、大規模災害、

 人びとは、いつ「殺され死」に追い込まれるかもしれない、そう観念するようになってしまっている。「人間一人の生命は地球より重い」はずなのに。

 だが、・・・・ 

「生命の尊さ」とはウソであって、どうしても「尊い」といいたければ「個(人)の尊さ」といえばよい、「生命」よりも「個(人)」の方が上なのだ。「殺すな」というときの、殺されるものは「生命」ではなく「個(人)」だ(小山俊一)。

 小山が言うように、かけがえのない一回限りの生を生きる「個」であるからこそ尊いのだ。 

 イデーもしくはドグマによって生命の尊さが根拠づけられるものではない。 

 生命とは、他を殺して生き己れのただなかに死をふくむという本質的な否定性をそなえている。この否定性は、生命は個としてのみ実現する(無定形の生命はこの地上にない)というところから生ずる  

 人間が日々他の生きものを食って生きる以上、そして人間と他の動植物の生命にちがいがない以上「生命の尊さ」はウソである。

  だから「殺すな」という定理は「生命」を殺めてはならないというのではなく、「個」という存在を根こそぎ消してしまうようなことをしてはならないということである。

 

 近時、やたら好戦的な権力者たちが魑魅魍魎としてのさばっているが、彼らには「かけがえのない一回限りの生を生きる<個>」への眼差しがあるとは思えない。生命が他を殺して生き、己のただなかに死を含むことを個として<生活者の心>(小山俊一)で認識しているかである。

 自爆テロについて辺見庸が「ただ単に、評論をうまくやってひとり悦に入るようなたぐいであったとしたら、これは言説として勝負にならない」と述べることにも通じるとおもう。

 なお、個として必死に産出した有形無形の非等価物を掠め取るという収奪システムのなかで人は生きているが、そこにも「絶やし」があることを観取する必要がある。