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辺見庸 研究 ~内宇宙への旅~

辺見庸の発言は、ときに「荒れ球」や「魔球」もあるが、「剛速球」が身上である。その根源にある思考とは何か。

88.国家・戦争・人間

 テレビやVR(ヴァーチャルリアリティ)に慣らされて、「生身」や「マチエール」感覚が希薄化してしまっている。これに対して、辺見庸は述べている。

 戦争って大変に身体的なことですね。ぼくはアメリカが戦争を工業化しているといいましたが、工業は数値で説明できても、身体はそうはいかない。アメリカ国民には柔らかで痛ましい身体があるけれども、それ以外の他者は数値でしかないというのではおかしい。着弾の音で発狂してしまうとか、そうした被害者を目の当たりにすると、国家と人間というものの構図のなかで、人間というものをこれほど侮蔑したことはないなと、つくづく思います。アメリカ人は一度、そういう爆撃現場を見て歩くツァーをしたらどうかと思うぐらいです(辺見庸坂本龍一『反定義 新たな想像力へ』100ページ)。

 マスメディアを使って政府は民衆の一層の無力化を画策している。この状況はわたしたちにとって「悲劇的」である。

 それは、「<必要>の巨大さの前と緊急さの前に<手段>が間に合わぬことを悲劇的という」―小山俊一(「オシャカ通信」『EX-POST通信』262ページ)のこの言葉の意味において「悲劇的」なのだ。

 だが、デモに参加し、闘うにしても。次の二人の認識はこうだ。

 私たち生き残った戦争世代の者の処生(ママ)上の最低綱領は「国家のために指一本うごかさぬこと」の外になく、思想上の最低綱領は「<民族><国民>を志向するいかなる動向にも加担しないこと」の外にない(小山俊一『同上書』40ページ)。

 

 ぼくはその宿業のような国家幻想に徹底的に対抗する物語のほうが好きなんですね。ぼくは幸か不幸か例外的な本然的反国家主義者なんだと思う。で、ぼくが書くことは、徹底的に反国家的で、反政治で、どこまでもふしだらでいたいと思う。政治に吸収されない、政治に利用されない、国家や政治を勇気づけない、政治的な発想をどこかでせせら笑っていたいですね。ただ、そういうことをやる限りは、どっかで落とし前をつけなきゃいかんというか、何度もいいますけれども、必ず向こう傷を負わざるをえないだろうなと、ぼくは予感してるんです(辺見庸坂本龍一『前掲書』157ページ)。

 

  われわれの徹底的な無力さ。私はそれを承認する。これが<理性>の始まりであり、生涯をかけての闘争が開始される時である。」(「ポールニザン」)―徹底的な無力さ、そこにとどまること、そこから何かが「始まる」かのように浮足立たないこと、それこそがおれたちのたたかいなのだ。そこに辛うじておれたちの〈理性〉がある。

 君(たち)の〈責任感〉はそれをにぶらせる役にしか立たない。きっぱりとそいつをたち切らねばダメだと思う。

 これは議論じゃなくて事実のはなしだ。気づくか気づかないかだ(小山俊一『EX-POST通信』288-289ページ)。

 

 徹底した無力を認識した個そしてその集合態としての私たちの「<必要>と<緊急>は」いや増す、その心身状況が闘いへと自然に向かわせる。これがNot(Notwendigkeit)としての義の発現なのだろう。 

 

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 最後に次の言葉を。

生きた人間をとらえるのに、〈できるだけ近づいて〉と〈少しはなれて〉と〈できるだけ遠ざかって〉とでは、どうちがうかを考えてみるといい

(中略)

 人がふつうに生活者として生きるとは、自分自身を自分にとって〈もっとも近い(親しい)もの〉として生きること、いわば「至近者」としての自己を存在することだ。うまく行為にも言葉にもなりそうにない「短かい夢」をひきずりながらだ。ところが革命家として生きるとは、自分自身を自分にとって〈できるかぎり遠いもの〉(「歴史化」する存在)として生きること、いわば「至遠者」としての自己を(「巨視」するばかりでなく)すすんで存在することだ。

 「短かい夢」なんぞかたっぱしからそぎおとしながらだ。〈遠いもの〉としての自己を生きる、とはそのまま「自己疎外」の定義そのものだ。すなわち革命家とはこの種の「自己疎外」をすすんで己れに課するもののことだ(小山俊一『同上書』139-141ページ)。