辺見庸 研究 ~内宇宙への旅~

辺見庸の発言は、ときに「荒れ球」や「魔球」もあるが、「剛速球」が身上である。その根源にある思考とは何か。

89.沖縄米兵の子が吊るされる日

 辺見庸は、自らの必然があればテロを敢行すると述べている。私的な被害・屈辱であったとしても、相手の行為が国家暴力を背負ってのものならば、公権力にゆだねることなく個人として制裁を加えるというのである。

 

 もしぼくがパレスチナの西岸やガザ地区などに生まれていて、いまのようなかたちでで(ママ)あんなでたらめな空爆をうけたら、八割ぐらいの確率でぼくはいわゆるテロリストになりますよ。親を殺され、妹を殺され、赤ちゃんを殺されたら、黙ってないですよ(『反定義   新たな想像力へ』辺見庸坂本龍一朝日新聞社、2002年)。

 

 沖縄はいつ戦時に移行するか予断を許さない情況にある。現在のところ半戦時と言えなくもないが、軍用機が飛び交う下で暮らす人びとや米兵による暴行・強姦の被害者、その恐怖に怯えている人びとにとって沖縄は「戦時」と変わらない。

 辺見はパレスチナの西岸やガザ地区での例え話で自らの決意を表したのだが、沖縄であっても変わりはないであろう。 

 

  毎日、ぼくらのこの世界はテロリストを養成してる。自爆テロ志願者を生み、育てているみたいなものでしょう。(中略)今後は、しっかりと話したり表現したりすることが肉体的な痛みとか、理不尽な目にあうということを、ある程度考慮に入れざるをえないと思いますね(『同上書』)。

 

 ところで、沖縄で生まれ育った目取真俊は、掌編小説『希望』で、戦後の沖縄の底辺最深部に鬱積している怒りの爆発ともとれる記述をしている。コザの市街地からさほど離れていない森の中で、行方不明になっていた米兵の幼児が死体で発見されたという設定である。

 

   今オキナワに必要なのは、数干人のデモでもなければ、数万人の集会でもなく、一人のアメリカ人の幼児の死なのだ。

 

との犯人の声明を記している。

 

 また『虹と鳥』という小説では、沖縄米兵による少女強姦に関して次のような表現がある。 

「こんなに人が集まっても何もできないんだから、沖縄の人間もどうしようもないよな。こんだけ集まったんだったら、基地の金網破って中に入ってな、アメリカ兵を叩き殺してやればいいのによ。いくら口だけわーわー騒いでも、アメリカーたちは痛くもかゆくもないだろう」。

 

「吊してやればいいんだよ。米兵の子どもをさらって、裸にして、五八号線のヤシの木に針金で吊してやればいい」。

 

「そうなのだ。カツヤは胸の中でつぶやいた。比嘉の言う通りだった。それ以外に方法などなかった。八万五千の人々に訴えている少女の姿は美しかった。だが、必要なのは、もっと醜いものだと思った。少女を暴行した三名の米兵たちの醜さに釣り合うような」。

 

 私はこの彼らの言辞に、追い込まれた者に特有の「罪業」と「必然の義」とのconjugation を読みt取る。